箱庭・執着

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 仕事を終えて家に帰ると、怒鳴り声と壁を蹴るような音が俺を出迎えた。 「……ってんだよ!! やる気ないなら消えろよ!!」  廊下の先にあるリビングはがらんとしており、レースのカーテン越しに街の光がチラチラと揺れている。その薄暗闇を見ながら靴を脱いだその時、右手にある扉が荒々しくバンッと開いた。 「シンちゃん、ただいま。今すぐッ――」  俺の言葉を遮るように黒い物が飛んできて、こめかみに直撃する。痛いという言葉を呑み込んで膝をつき、ぶつかって落ちたゲームのコントローラーを拾い上げた。 「ねぇ?! 俺がムカついてる時はシンちゃんって呼ぶなって言ったよね?」  髪を掴まれ、苛立った声が投げかけられる。 「ごめんなさい、眞一郎さん」  短く切り揃えられた足の爪、薄く骨の浮いた裸足の甲、そして黒のベロアジャージを順に見上げていく。だらしくなく着こなしているが、これはこの人によく似合う。大きく開いた胸元にシルバーのペンダントが映えている。  シンちゃんは細い喉を揺らして小さく咳払いをすると、無理に落ち着いた声を出す。 「そうだ、星野。今すぐワイン買ってきてよ。甘いのが飲みたい」 「あ、あの。でも、この時間はもう」 「何? もしかして俺の言うこと聞けないの?」 「……ごめんなさい」 「俺の為なら何でもできるよね?」 「できます」 「じゃあ今すぐ買ってきてよ!」  シンちゃんは俺の手からコントローラーを引ったくると、運動不足ですっかり痩せた脚で俺を小突いた。 「言い訳ばっかりでほんと使えないよね。星野もギルメンも。俺がいないと何もできないくせにっ」  震える声でそう言うと、彼は俺に背を向けて歩き出した。今朝俺が丁寧に梳かしたはずの黒髪は、無造作に束ねられボサボサになっている。 「いってきます」  シンちゃんの部屋の扉が音を立てて閉まるのを聞いてからマンションを出てタクシーに乗り込むと、まだ営業しているはずのデパートへ急いで向かわせる。  シンちゃんは俺の全てだ。俺はこの人の為なら何だってする。どれだけ乱暴にされても、どれだけ理不尽な命令をされても、そのことは決して揺るがない。初めて出会った中学生の頃のあの日からずっと。  当時のシンちゃんは全てを手に入れていた。勉強もスポーツも何でも出来たし、自信に溢れた姿は気高く美しく、まさに皆の憧れだった。地元では名の知れた中高一貫校で、彼は紛れもなく王様だった。  その瞳の奥で燃え滾っていたはずの炎がゆっくりと小さくなっていったのは、大学に進学してからだった。誰よりも努力家で繊細なシンちゃんに、擦れた都会の大学は合わなかったんだと思う。  明るく染めた髪色も、媚びへつらうような周りの笑顔も、校内最大規模のサークルの代表という立場も、シンちゃんにはよく似合っていた。  だけど、シンちゃんはいつも怯えていた。手に入れた物すべてが不確かなものだとわかっていたんだろう。そして、その不安は現実のものとなった。裏切られ、傷つけられ、ついには全てを失った。ただ一つ、俺という奴隷を除いて。  デパートの地下でシンちゃんの好きそうなカナダ産のワインを見つけると、俺は値段も見ずにカードを切り、再びタクシーで家へ帰った。 「おかえり、星野。遅かったね」  シンちゃんは既に酔っているのかと思うほど上気した顔で俺を出迎えてくれた。 「……眞一郎さん、ワイン買ってきました」 「ふふ。何で敬語なの? おいで。外、寒かったよね」  その胸に体を預けると、肌触りのいい柔らかな布に包み込まれた。俺が選んだ上質なベロア生地だ。  シンちゃんは骨張った腕で俺を強く抱き締めると、興奮した口調で話し始めた。 「ねぇ、星野。俺、さっき使えないギルメン追放してやったんだ。結構長くいた子だったから俺も辛かったけど、時には冷酷さも必要だと思って。他のメンバーからはものすごく感謝されたよ」 「すごいね、シンちゃん……」 「やっぱり俺がいないとダメなんだ。なのにあいつらは何もわかってない」  俺の頬に冷えた手が触れる。上を向かされた唇に、柔らかなものが押し付けられる。ゆっくりと流し込まれる彼の熱に、心の芯まで満たされていく。 「星野だけだよ。俺のことわかってくれるのは……」  アイスワインに溶かされるように眠ってしまったシンちゃんの体に毛布を掛けてやると、俺はパソコンを開き、今日の活動記録を確認した。  数年前からシンちゃんが夢中になっているオンラインゲーム。彼がマスターを務めるギルドのメンバーは、全て金で雇われた人間だ。彼らはマスターを慕い敬い、時々こうして揉め事を起こすように指示されている。  シンちゃんは再び王様となった。俺の用意したこの小さな箱庭の中で。その瞳に以前のような炎は見えないけど、それは大した問題ではない。シンちゃんはシンちゃんなんだから。  俺はあの頃と何一つ変わらずに、彼のことを愛している。  シンちゃんは俺の全てだ。  だから、シンちゃんの全ては俺のものだ。  その為なら、俺は何だってする。
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