煙草・珈琲

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 始業時間の三十分前に自席に着き、パソコンの電源を入れる。ネットワークに繋がった途端、待ち構えていたかのように社内用のチャットアプリに通知が表示された。 「東京に戻ってきたと聞きました。久しぶりに飯でもどうですか」  その全文を読み終わるよりも早く、俺は三日前に買ったばかりの煙草の箱を引っ掴んでトイレへ向かった。  個室に入ると乱暴に封を切り、一本取り出してそれを咥える。当然火は着けずに、ただ貪るようにその独特な味と匂いを吸い上げた。甘いような苦いような、歪なバニラフレーバー。呼び起こされるのは、動悸、吐き気、眩暈、それから……。  震える手でそれをつまんで、思い出すのはもう四年も前のこと。 ◇◇◇  毎週水曜日、客先での定例会議からの帰り道。あれは、金払いはいいが結論を出すのが遅い、鬱陶しい客だった。俺たちも参加しているというのに平気で内輪の議論を始め、時間を食いつぶす。そんな会議にわざわざ二人で来る必要がないことくらい、入社二年目の俺にもわかっていた。だけど俺は必ず付いていった。  ただ、この時間を過ごしたいがために。 「なぁ、今日も十分だけいいか」  客先のビルと駅のちょうど真ん中くらいにあるチェーンのカフェの前で、谷口さんは人差し指と中指を立てて煙草を吸う仕草を見せる。 「俺にも一本くれるならいいですよ」 「お安い御用で」  いつものように谷口さんがブレンドのSを二杯注文する間に、俺は灰皿を手にして喫煙席に向かう。テーブルの上に置かれる苦いだけの珈琲と、見慣れた銘柄に百円ライター。 「ん」 「あざっす」  躊躇うことなく一本取り出して唇に挟み、きゅっと吸い込みながら火を着けた。口の中に広がったものをそのまま吐き出すと、涙と煙で霞む視界に憂いを帯びた伏し目が映る。 「今日話してたモックアップ、すぐ作れそう?」 「いけます。もう今日は他のことやる気になんないんで、戻ったら議事録まとめてそれ作って帰ります。どうせまた仕様変わるんでしょうけどね」 「まぁねぇ。でも、これが俺らの仕事だからさ。勘弁してやってよ」  短く吸っては吐く。微かに震える手で灰皿に煙草を置くが、手持ち無沙汰ですぐにまた口元へと運んだ。 「マジで無駄ですよ。こんな会議に二時間も使うの。俺来る意味あるんすかね」  慣れた様子で灰を落とす手元を見つめながら、探るような言葉と共に煙を吐き出す。 「いい息抜きになるでしょ。最近色々任されてるみたいだし」  いっそ、もう来るなと言われれば楽なのに。 「息抜きより定時で帰れる方がいいっす」  柔らかく微笑むその顔が、有害物質と共に脳に刻み込まれていく。その毒に侵されれば二度と元には戻れないと知りつつも、俺は何度も煙を吐いた。 ◇◇◇  あの時、あんたは俺のことどう思ってましたか。  真っ白な煙を吐く俺のこと。  吸えないのに無理するカワイイ後輩だと思いましたか。  ただサボりたいだけのやる気のない奴だと思いましたか。  それとも、あんたは……。  手の中の煙草をトイレットペーパーにくるんでポケットに突っ込むと立ち上がる。自席に戻り、開きっぱなしだったチャットをじっと見つめた。  あの鬱陶しいだけの案件は、俺が親会社への出向とともに名古屋転勤となったすぐ後に消滅したと聞いた。俺たちが掛けた時間は、ふかすだけの煙草みたいに、何の役にも立たずに灰となってしまった。  あれから四年。あのカフェも全席禁煙になったはずだ。俺も小生意気なだけの若造から少しは成長したと思う。  ねぇ、今どこで何の案件やってんすか。  金食い虫だって言ってた馬鹿デカい車は売ったんですか。  営業の子と結婚したって聞きましたよ。  子どもも生まれたんですよね。おめでとうございます。  だから禁煙したって本当ですか。  絶対辞められないって、言ってたじゃないですか……。  いまだ少しだけクラクラする頭の中に、いくつもの言葉が浮かんでは消えていく。こんなにも鼓動が早いのは、苦手なニコチンのせいなのか。 「煙草、俺にも一本くれるならいいですよ」  ほんの一瞬だけでもいい、あの頃に戻ってくれませんか。  俺のために、家族を裏切ってくれませんか。  叶うことのない願いを込めて、そっとエンターキーに乗る小指を下ろした。
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