濁世を往く

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濁世を往く

ある者は欠けた槍を持ち、ある者は折れた刀を握り、ある者は弓に矢を番えたまま。 ざんばらに髷を乱し、雑兵どもが死んでいる。 「屍血山河に死屍累々、三千世界は諸行無常か」 地面を突いた錫杖が澄んだ旋律を奏で、十二連の遊輪が残照を弾く。 西空を赤く初め、なだらかな稜線に日が沈む。 野原には一面甲冑を着た屍が転がっていた。人だけではない、馬も倒れている。 悠揚迫らざる物腰で荒れ野を征くのは、立派な錫杖を携えた旅の法師。均整とれた痩身に袈裟を纏い、孤高に歩む姿に気圧され、風すらも避けて通る。 烏の濡れ羽色の髪を風がもてあそぶのにも動じず、怜悧な眼光宿す切れ長の眸で前を見据え、影だけを供に法師は行く。 もうすぐ日が沈む。早く宿を見付けねば厄介なことになる。気が逸り周囲に視線を飛ばす。行く手に小柄な影が現れた。戦場には場違いないとけない童女。 「可愛い子にはべべ着せよ べべ着せよ 一張羅のべべ着せよ」 肩で切りそろえた黒髪をさざなみだて、ひとりぼっちで蹴鞠に興じている。 ぽうん、ぽうん。 「真っ赤に染めた帷子(かたびら)着せよ 死出の旅路に帷子着せよ」 童女の足元でまん丸い何かが跳ねる。弧を描いて空に上がり、また落ちる。 法師は瞬いた。 夕間暮れの空に緩い弧を描き、眩い逆光に縁取られて落ちてくるのは毬にあらず、しゃれこうべだった。 「おい、そこの……あ~」 両の眼窩に闇をためたしゃれこうべが、空を滑り落ちてくる。 白くふくよかな手がそれを受け止め、振り向く。 風が止む。 やんごとなき童女がひたと法師を見据え、告げる。 「鬼がくるよ」 しゃれこうべを蹴る。 「おっと」 片足で巧みに捌き、再び蹴り上げたそれを掴んだ時には童女はおらず、甲高く弾けた笑いの余韻と手中の髑髏だけが残された。 「ご忠告おおきに」 e5cbf962-f5bd-4dc2-9c8a-904da60c9442 同刻、山を挟んだ反対側の平野。 涸れた眼窩を出入りする肥えた蛆を一瞥、しゃれこうべを踏み砕いて歩くのは、擦り切れた襤褸を纏った少年。 年の頃十四・五。栄養失調気味の貧相な体躯はあばらも露わで痛々しく、覚束ない足取りは今にも倒れそうな案配だ。 泥と垢にまみれた肌は不健康に青黒く、夕映えが研いだ瞳は不吉に赤い。 ぼさぼさに跳ねた髪には粉を吹いたように虱が沸いていた。 暮れなずむ空に黒点が舞い、濁った鳴き声が(どよ)もす。 死体を避けて歩きたくてもそこらじゅうに骸骨が散らばり、足の踏み場もない惨状を呈していた。 うるさい羽ばたきを伴い舞い降りたカラスが、喜び勇んで腐肉を啄む。鋭いくちばしで赤い繊維を咥え、限界まで引き伸ばし食いちぎる。 合戦場跡を夥しく埋め尽くす死体と屍漁りのカラスたち。 常人ならば戦慄を禁じ得ぬ酸鼻を極めた光景に、夕映えを宿す瞳が凝視を注ぐ。 生唾を嚥下した喉が鳴り、我知らず手を伸ばし、震える指を折り畳んで引っ込める。 踵を返して誘惑を断ち切り、足早に先を急ぐ。 少年は裸足だった。何日歩き続けているのか自分でもわからない。腹が減っていた、物凄く。 猛烈な飢餓感に苛まれ、合戦場跡を通り過ぎ、鬱蒼とした山へ分け入っていく。 峠をこえれば里がある。そこで水を恵んでもらおうと思ったのだ。 日が暮れるのは思ったより早い。 頭上の茜空は墨を垂れ流したような闇に浸され、下生えに覆われた獣道に吹く風が、身を切る冷たさを増していく。森の中からは鳥獣の咆哮が響き渡る。幽玄の霧深い谷に(こだま)し、空気を震わす遠吠えの主は狼か。 いい加減野宿に慣れたとはいえ、山中で夜明かしは抵抗を感じる。せめて屋根のある所で眠りたい。気休め程度で構わないから、雨風をしのげそうな岩陰や木の洞をさがす。 「ッ!」 無防備に踏み締めた小枝が折れ、尖った先端が足裏に刺さる。迂闊だった。 幹に凭れて息を整え、びっこを引いて先を急ぎ、視界を塞ぐ枝葉をかきわける。 唐突に視界が拓け、苔むした荒れ寺が出迎えた。 「助かった」 屋根は傾いて所々瓦が落ちているが、寝泊まりできるだけ有難い。心底安堵して雑草が芽吹く境内を突っ切り、縁側に飛び乗る。 障子に手をかけ開け放った直後、しゃん、と澄んだ金属音が響いた。 「誰や」 上方訛りの誰何に息を飲む。 首に突き付けられた冷たい感触の正体は錫杖。薄皮一枚隔て、痛い程の殺気が伝わる。 敷居を跨ごうとしたまさにその瞬間、何者かが錫杖を薙いで通せんぼしたのだ。 「お前こそ誰だ」 漸く絞りだした声は情けなく上擦っていた。首を制す錫杖は小揺るぎもしない。 数呼吸おいて投げ返された声は、冷静沈着に落ち着き払っていた。 「名乗るほどでもない旅の法師や」 「怪しい」 「いやいやお前のほうが怪しいて。これから日が暮れるっちゅー刻限にガキが独り歩きかいな、物騒なご時世に命知らずやな」 随分饒舌な化け物だ。馬鹿にした調子の指摘にムッとし、錫杖を押し返す。 「宿をさがしてたんだ。したらこの寺に行き会って……」 「ふうん」 暗闇に沈む輪郭が俄かに濃くなり、浮世離れした男の姿が浮かび上がる。 「そのなり、孤児か」 目を瞠った。 自分が対峙していたのが化け物ではない事実に驚いたのと、本堂の闇から踏み出した青年が、予想を裏切る端正な容姿の持ち主だったから。 かっきり弧を描く柳眉、涼しげな切れ長の双眸、秀でた鼻梁と薄い唇。カラスの濡れ羽色の髪は艶やかな光沢を帯び、額に流れる。右の耳朶には珍しい、異国の飾りがたれていた。 「本当に坊主?」 「見てわからんかい」 「仏門に入ったら剃るのがきまりだろ、そんなふさふさでいいのかよ。さては破戒僧か」 「阿呆かお前、剃ったらモテへんやんけ」 「は?」 要領を得ない返答に眉を寄せる少年に対し、腕を組んで踏ん反り返る。 「禿は精力絶倫ゆうけどあんなんただの負け惜しみや。俺は上の毛を下に移さんでも手練手管で女を悦ばせられるさかいに、わざわざ剃ることないねんよ。ちゅうか嫌やろもじゃもじゃは、毛じらみ沸いたら痒いし汚いやん。病はもとから絶たなあかん」 錫杖の尻で軽く床を突き、ほくそえむ。 「ようこそ荒れ寺へ。連れができて嬉しいわ」 なんだ一体。 目の前の自称法師に対し疑念を募らせるも、忍び寄る夜の脅威には勝てず、だだっ広い本堂へ足を踏み入れる。 床は埃でざら付き、体重を乗せると軋む。 「お前の寺?」 「たまたま見付けて借りただけ。俺の寺やったらもっと豪勢にするわ、壁中金箔貼りまくって鳳凰や麒麟の蒔絵を……っておい聞け。自分から振っといてシカトかい、可愛げないガキやで」 打ち捨てられて何年たっているのか。朽ち果てた堂の奥に、巨大な仏像が胡坐をかいていた。 右と左それぞれに顔が彫られた怪相に気圧され、あとずさる。 「これは?」 「不動明王」 少年と並んで仏像を仰ぎ、謎の法師が語り始める。 「密教の根本尊の大日如来の化身ていわれとる……正式名称は大日大聖不動明王、やったかな?」 「顔が二ツある」 「一面二臂で睨み利かせとんねん。手に持っとんのは降魔の三鈷剣と羂索、悪人を縛り上げる縄やな」 「蛇が巻き付いてる」 「アレは龍、正確には倶利伽羅竜王。三鈷剣は別名倶利伽羅剣ていうんやで、知らんのかい」 「……エセ法師じゃなさそうだな」 「カマかけかい。やるやん」 不承不承認める少年を鼻で嗤い、壁際に退く。錫杖は片腕に立てかけたまま。 「梵名はアチャラナータ。天竺の言葉で揺るぎなき守護者を意味するらしい」 「どうりで強そうなわけだ」 妙な成り行きになった。 法師が顎をしゃくって促す。 「ボサッと突っ立っとられると目障りや。てきとーに座れ」 「自分の寺でもねえのに偉そうに」 「今は誰のもんでもない荒れ寺、先に陣取ったもん勝ち」 「盗人猛々しい」 あきれた矢先、屋根が軋んだ。法師が左右非対称の笑みを刻む。 「今夜は嵐がくる。早いとこ転がり込めてツイとるで、坊」 「坊?俺?」 「俺とお前以外おらへんやろ」 人さし指が往復する。心外だ。 4ac4f81b-4d98-4d39-b598-ba00ca69152c「あおぐろ」 法師がきょとんとする。微妙な沈黙に地団駄踏む。 「俺の名前!さっき聞いたろ!」 「けったいな名前やなあ。虱伝染ると嫌やから近付くなよ、そっちの隅っこで寝とれ」 ブチ殺してえ。 怒りに震える拳を握り込むあおぐろをよそに、追い立てた手を翻しざま着物の袂に突っ込み、もったいぶって何かを取り出す。 「それは」 「夕飯。夜は長いで、腹ごしらえせな」 見かけによらぬ豪快さで干し大根に齧り付く様にげんなりし、壁際で膝を抱える。 直後、腹が間抜けな音をたてた。あおぐろは赤面する。 上目遣いでおそるおそる探れば、大口開けて大根を咀嚼した法師が、底意地悪い笑顔を浮かべる。 「物欲しそうに見てもやらへんよ」 「意地汚ェ。坊さんなんだろ、施せよ」 「嫌じゃボケ、これは俺の干し大根じゃ」 なんて奴だ。開いた口が塞がらない。 干し大根を半分ほど食べ終えた法師が膝を崩し、膨れた腹をさすってため息を吐く。 「ごちそうさん」 「餓鬼道に落ちろ」 しれっと悪態を受け流し、干し大根の残りを袂にしまい、腕枕で寝転がる。暫くのち、雨粒が瓦を叩く音が響きだす。 法師の予想が当たった。 ひもじさに耐えて膝を抱くあおぐろの方に、おもむろに何かが放られた。 「……何?」 「大根の尾っぽ」 「どーゆー風の吹き回しだ」 「寝ようとしとんのにぐうぐううっさいねん。衆生に施すんも務めやしな」 背中を向けたまま答える。あおぐろは身構え、警戒し、素早く大根を取ってがっ付く。 「!うぐっ」 両手でガツガツむさぼり、喉に閊えて悶絶し、胸を叩いて事なきを得る。 さも愉快げな忍び笑いに涙目を上げると、こちらに向き直った法師が頬杖付いてにやけていた。 「……盗んだの?大根」 意趣返しに訊く。 「まさか。もろたんや」 「どこで」 「この山をこえたずっとむこうの村」 「有難いお経でも唱えて回ったのか」 「化けもん退治の見返り」 心臓が大きくはねた。 露骨な反応を面白がり、法師がまぜっかえす。 「今さら驚くほどのことかい。旅の法師ていうたやろ、道中仕事せな路銀を稼げん。化けもん退治が俺の生計(たっき)」 飄々と嘯いて錫杖を突き上げる様子からは、絶大な自信と余裕が窺い知れた。 麓から出した蝋燭を燭皿に立て、虚空に翳した指を弾く。 即座に蝋燭に火がともる。 黒い瞳が炎の揺らめきを映し、深く澄む。 端正な面を不気味な陰翳で隈取り、雨音が空疎に響く本堂に座し、若き法師が口を開く。 「俺の名は濁世(だくせ)」 「変な名前」 率直な感想を述べた刹那、蝋燭の火がかき消えた。 「え?」 「あ~~も~~せっかくお話したろ思たんに萎えたわ、寝よ寝よ」 「ちょっと待て、変な名前って言われて拗ねたのか」 「やかまし。不動明王と睨めっこでもしとれ」 図星か。 濁世はあおぐろに背中を向け、狸寝入りとすぐわかる大きな鼾をかきはじめる。 ……あおぐろは悪くない。 断じて悪くないのだが、少しばかり罪悪感を感じないでもない。名前を茶化すのは軽率な振る舞いだった。 決まり悪げに咳払いし、不貞寝をきめこむ後ろ姿にしぶしぶ呼びかける。 「そこのエセ法師。悪かったって、謝るから。蝋燭に火まで点けてやる気満々だったじゃねえか、大根手に入れた経緯とやらを話せよ、聞いてやっから」 「ぐー。ぐー」 「やっぱ盗んだのか」 「正当で妥当な報酬じゃボケ」 泥棒扱いは不本意なのか、すかさず起き上がって胡坐をかき、再び蝋燭に火をともす。 「絶対水さすなよ。話は黙ってしまいまで聞け」 「わかった」 「くだらん茶々入れたら途中でやめるで」 「はいはい」 「錫杖で床めりこむまで殴るさかいに」 「キレすぎだろそれは。法具を鈍器にしたらばち当たんぞ」 押し問答を遮り、本堂と縁側を仕切る障子をほとほと叩く者があった。 「申し……申し……宿をお借りできないでしょうか」 障子紙に映るのはたおやかな撫で肩の人影……女。か細い懇願に対し、色惚け法師が即答する。 「ええで。上がってこい」 「では」 遠慮がちに障子を滑らせ、白い頭巾を被ったうら若い尼僧が敷居を跨ぐ。所作にえもいえぬ気品が漂っている。出家した武家の娘だろうか。 「峠越えの最中に降られたん?災難やったね」 「お気遣い痛み入ります。どうかお構いなく」 猫なで声で労り、嬉々として腰を浮かす。あおぐろの時とまるで態度が違うあたり、根っからの女好きらしい。 「腹へっとる?大根食うか?」 「ご親切にありがとうございます」 「隣空いとるで」 いそいそ招き入れ、袂から出した干し大根を勧める濁世に鼻白む。 「俺ん時と態度違くね?」 「女体は宝で女は観音様。御開帳してほしけりゃ拝まんかい」 「色欲のかたまりかよ」 横顔に視線を感じたのか、振り向いた尼僧と目が合った。 肉厚の唇が綻び、妖艶な微笑が仄めく。あおぐろは赤面した。 自慢じゃないが、この年になるまでまともに女と喋った試しがない。話した覚えがあるのは辛うじて母位のものだ。 案の定濁世がひやかす。 「なんや坊うぶい顔して。さてはムッツリか」 「うるせえ。とっとと話せ」 「まあ、説法を聞かせてくださるのですか」 尼僧の目が期待に輝く。本堂に響く雨音が強まり、蝋燭のかそけき炎が膨らむ。 濁世が胡坐を組み、錫杖を立て、仕切り直す。 「この山をこえたずっと先に小さい里がある。近在のもんに日水村て呼ばれとる、水捌けの悪い集落や」 篠突く雨の音と静謐な声が溶け合い、不思議な余韻を帯びる。尼僧は真顔で正座し、あおぐろも興味を示す。 「その村の名なら聞いたことがございます。山陰に在り、日が当たらない土地だとか。お百姓様はさぞかし開墾に苦労されたでしょうね」 眉をひそめ同情する尼僧に向かい、濁世が指を九本折る。 「日水村には九ツ沼があって、コイツは地下深ゥ繋がっとった。もとは澄んだ泉やったそうやけど、俺が行った時は泥で見る影のォ濁って、化けもんが巣食うとった」 旅の途中偶然日水村に立ち寄った濁世は、村人たちに化け物退治を乞われた。 「でっかいミミズの姿をした化けもんで、村の連中にはおきゅうさまて呼ばれとった。もとは日水の御山におったんを、村を拓く時に土を耕してもらおて勝手な理由で下ろしたんや。せやけどまあ、そない上手くいくはずない。人間かてただ働きはよぉせん、道理が通じんあやかしなら尚更。神に祭り上げられた化けもんは贄を求めるんが世のならい」 村の人々は土を肥やすおきゅうさまに生贄を捧げ、豊作を祈った。 「土を食べるミミズが人の味を覚えたんがそもそもの間違いやった」 濁世が低く断じ、達観した眼差しを遠くに投げる。 「おきゅうさまは賢い化けもんやった。村人たちの事をよお観察して、人まねをしよったんや」 「人まねとは」 嫌な予感がした。 先を聞きたくない。 だが気になる。 緊張を孕んだ尼僧の問いに表情を消した濁世が、本堂の天井を仰ぐ。 「娯楽の少ない辺鄙な村で、男と女がすることちゅーたら決まっとる」 「まさか」 おぞましい想像に慄くあおぐろを一瞥、宣す。 「おきゅうさまは贄と番うて、子作りの仕方を覚えた」 醜悪な現実に吐き気を催す。 尼僧は青ざめて口を覆い、あおぐろの顔は引き攣る。 この場で唯一、語り手だけが平然としていた。思わず身を乗り出し異議を申し立てる。 「でまかせだ、人の形をしてるんならともかくミミズの化けもんと人間が子作りできるはずねえ」 「なんで法螺て言いきれる?その目で見たんか?大昔の神さんは山野の石っころや草木に精気を注いで子を増やした、化けもんが同じやり方で繁殖したかておかしゅうない。けどま、しょせん化けもんと人のあいのこや。姿かたちを完璧に継がすんは無理がある」 「村のひとびとは異形と人のあいのこをどうしたのでしょうか」 「生まれて来たんはのっぺらぼうの赤子。目も鼻も口もない、産声も上げん……人の形しとらんかったんねん、最初から。でもって、とうぜん人扱いされへんわな。あいのこたちは(あがた)……供物て呼ばれて、牢屋に閉じ込められとった」 「神さまの落とし子なんだろ?大事にしなけりゃばちが当たるんじゃねえの」 やるせなげなあおぐろの反論を、濁世は冷たく一蹴する。 「おきゅうさまは強くてでかくて恐ろしい、せやから逆らえん。けどな、好きで身内を捧げる奴なんてホンマはおらん。おきゅうさまを畏れ敬うた分だけ、弱く卑しい縣に憎しみが向かうんはありえるこっちゃ」 「縣は村人たちの捌け口にされたのか。名前も貰えず」 あんまりだ。酷すぎる。 縣たちの残酷な運命に憤り、拳で膝を殴るあおぐろの隣で、尼僧が控えめに手を挙げる。 「日水村の化け物は法師様が封じたのですよね」 「半分」 意味深な発言を怪しんで顔を上げ、韜晦を含む瞳に魅入られる。 「アレは暴れん坊がすぎて、半分に裂くんが限界やった」 「片割れはどうした?」 あおぐろの問いに錫杖を鳴らし、口角を吊り上げる。 「片っぽは地の底深く封じた。残りは―」 稲光が夜空を切り裂き、雷が視界を漂白する。 「きゃあっ!」 尼僧が耳を塞いで突っ伏す。一瞬暴かれた濁世の顔には、邪悪な笑みが張り付いていた。 「はは、脅かし過ぎたなすまんすまん。暇潰しにはなったやろ」 「お前な……作り話かよ、趣味悪すぎ」 馬鹿馬鹿しい。まんまと担がれた。エセ法師の法螺を真に受け、心臓が早鐘を打っている。 「お戯れを、法師様」 尼僧が安堵の表情で胸をなでおろし、がたぴし軋む障子の向こうを不安げに仰ぐ。 「雨……やみませんね」 「火は絶やさん方がええな。交代で見張ろか」 「勝手に決めんな」 「ほなお前が一晩中付きっ切りで寝ずの番な」 「うっ」 ひと睨みで黙らされ、唇を噛んで了承する。外で吹き荒れる風はどんどん激しさを増し、障子の破れ目から吹き込んだ雨がしとどに床を濡らす。 「仕方ねえ」 斯くして三人は荒れ寺に泊まる事になった。 「どうやって順番決める?」 「錫杖が最初にさしたもんが一番手。同じやりかたで二番手三番手を決める」 「おもり仕込んでねえよな?」 「難癖は嫌われんで」 本堂の真ん中に寄り集まり、濁世の音頭のもと錫杖を倒す。 「一番手はお前。二番手が俺。最後がアンタ」 濁世の指があおぐろ、自分、尼僧を順繰りにさす。 あおぐろはぶっきらぼうに頷き、燭皿を捧げ持ち、不動明王の足元に居座る。 魑魅魍魎が跋扈する戦国の世に、蝋燭一本では心許ない。ならば偉大なる不動様のご威光にあやかろうと思ったのだ。 「不動さんが後ろで睨み利かせとるなら化けもんは近付けんてわけか。他力本願極まれり」 「嫌味か。とっとと寝ろ」 「よろしくお願いしますね」 尼僧が丁重に一礼し、壁に凭れて目を瞑る。濁世は元の壁際に戻り、無造作に寝転がる。あおぐろはあくびを噛み殺す。大根ひとかけらでは腹にたまらない。 「!っひ、」 うなじにひやりとした感触。不意打ちに悲鳴を上げ、天井の雨漏りに気付く。ツイてる。すかさず手のひらで受け、雫を飲み干す。とはいえ渇きを癒すには足りず、犬のようにべろべろ舐め回す。 夜は静かに深まりゆく。蝋燭は太く長く、明け方まで十分もちそうだ。 しかしよそ見は禁物、うっかり倒して火事になったら困る。 長い間じっとしてるのは苦手だ。 蚤に噛まれた肌の痒みにいらだち、あちこちかきむしる。轟々と唸る風に障子が撓み、屋根や床がうるさく軋む。 眠っちゃ駄目だ。 頬や腿を抓って戒め、無為に闇を見詰めるうちに、蝋燭の炎の中に昔日の光景が浮かび上がる。 『逃げて、あおぐろ』 荒々しい足音と怒号が飛び交い、女子供が泣き叫ぶ。身を挺し息子を逃がす母に足軽が跨り、着物を引き裂いていく。 夢はそこで途切れた。知らない間にまどろんでいたようだ。顎に伝うよだれを拭い、蝋燭の炎がまだ生きてるのを確認する。 「うっ、ぐ」 呻き声がした。なんだろうと闇を透かし見、異変を察する。濁世が床をかきむしり身悶えている。あおぐろと同じく、悪夢にうなされているのだろうか。 「ァっ、ぁあ」 大丈夫かと一声投げかけ思いとどまったのは、苦痛の呻きが艶っぽい喘ぎに変化したから。息を殺し、目を凝らし、濁世がいる方を観察する。 蝋燭の朧な明かりが暴くのは、夥しいミミズに似て奇怪に蠢く触手の影絵。 現実の濁世に異常はない。袈裟の胸元を掴んで突っ伏し、汗みずくであがいてるだけ。 否。よく見れば袈裟をはだけ、白い肌を惜しげもなくさらしている。着物の裾が不自然に膨らんで盛り上がり、不可視の何かが両脚をこじ開け、菊座に潜り込む。 「~~~~~~~~~~~~~~~~~~ッぁ!」 大きく仰け反り絶頂する。 前髪の奥の表情は法悦に蕩け、だらしなく弛緩しきっていた。 何が起きているのかわからない。 言葉を発するのも忘れてただただ硬直し、視線の先で繰り広げられる、濁世の痴態を目に焼き付ける。 「はあっ……はあっ……」 影絵がおぞましく暴れ狂い、息も絶え絶えな法師の四肢に絡み付く。 何かが濁世を犯している。 凌辱している。 形良い尻を剥き、力ずくで引き立て、パンパンと楔を打ち込む。 ずちゅり、ずずずと濡れた音が立ち、股間の男根がそそりたっていく。 目を瞬き、あおぐろは見た。黒い霧の集合体に見える触手が、濁世の体を締め上げている。 「ッ、は、大人しゅうしとれ」 今の濁世は別人のように覇気に乏しい憎まれ口を叩くのが精一杯。無体に抗うすべはなく、好き放題に尻を捏ね回され、しこたま種を注がれる。 「あっ、ふっうっ、ぁあっあ、ンぅぐ」 袖を噛んで喘ぎ声を殺し、じれったげに腰を揺する。触手が器用に着物を剥ぎ、胸の突起を吸い立て、ねぶり、前と後ろを同時に犯す。 目を逸らせない。薄桃の乳首ははしたなく尖り、赤黒い男根は脈打ち屹立し、透明な粘液を垂れ流す。 「あッ、そこ、よせ」 羞恥に染まった顔で口走り、一際深く突かれてまた仰け反る。額に散らばる前髪の奥、淫蕩に潤んだ瞳が焦点を失っていく。 秘めやかな衣擦れを伴って諸肌脱ぎの上半身がうねり、触手の愛撫に際限なく高まって、何度も達し、果て、不規則な痙攣を全身に打ち広げる。 「もォ堪忍、ぁあっ!」 皺ばんだ袖は大量の涎と汗を吸い、濃く変色していた。精力絶倫な触手は濁世の哀願など全く意に介さず、絶え間ない抽挿で追い上げ、絶頂に至らしめる。 「ンっあぁ」 前立腺のしこりを重点的に責め立てられ、男根が潮を吹く。 されど触手は満足せず、床に滴る白濁を退化した口でぴちゃぴちゃ啜る。 「っは……も、むり、許して。死んでまうこんなん」 濁世が吐息だけで喘ぎ、小刻みに震える指で錫杖を手探りする。 刹那、触手が錫杖に巻き付いて無慈悲に取り上げ、横にしたそれを濁世の膝裏に渡す。 哀れ、両膝の裏に錫杖を噛まされた濁世。 大股開きで固定された上から触手が緊縛し、菊座が秘めた赤い媚肉を絶えず巻き返す。 異物による肛虐がもたらす快楽に泣き狂い、窄めた足指で床を引っ掻き、抵抗虚しく堕ちていく。 「あっ、あっ、ぁっあ、あっ」 腰の動きに合わせて錫杖が鳴り、しゃんしゃん涼やかな音をたてる。 影絵の触手が濁世に絡み付き、上と下の口に同時に出入りし、前と後ろを責め苛む。 凍り付く少年とよがる青年の視線が絡む。 驚愕に剥かれた瞳に虚無が浸潤し、理性すらも煮溶かされた諦念と絶望が去来。 咄嗟に耳を塞ぎ、法師の痴態に背を向ける。 それが最善の選択だ。背後では化け物がお愉しみの真っ最中。しゃんしゃん錫杖が鳴り響き、切なげな喘ぎ声が高まっていく。 「時間やで坊」 即座に跳ね起きる。錫杖を持った濁世が、怪訝そうに覗き込んでいた。 「……寝てた?」 「交代」 夢と現の境が曖昧に溶けだし、混乱する。呆然自失の態のあおぐろを振り返り、悪戯っぽい流し目をよこす。 「いやらしい夢でも見とったん?」 濁世の視線を辿って下半身を見、慌てる。あおぐろは勃起していた。 「へえ。見かけによらず意外と」 「うるせえ!」 感心半分からかい半分、ニヤニヤする濁世を一喝して横たわる……が、眠れない。目はギンギンに冴えていた。序でに下半身も。 さっきのアレはなんだ。 あの化け物がおきゅうさまなのか。 聞きたいことは山ほどあるが羞恥心に妨げられ、直接聞くのが憚られる。 倒錯した痴態を反芻する都度、濁世の細いうなじや鎖骨、唇に目が吸い寄せられ、過剰に意識してしまうのが後ろめたい。どうしようもなくムラムラする。 先ほどの常軌を逸した情景が現である確信が持てず、妄想が高じた夢だったらと思うと、自ら墓穴を掘るのは躊躇われた。 「……濁世ってどーゆー意味?」 「濁り汚れた人間の世。末世。五濁悪世」 「酷ェ名前。誰が付けたんだ」 「俺を拾ォて育ててくれた徳の高い坊さん」 「捨て子だったの」 「赤ん坊の時に山寺の門前に捨てられとった。親の顔は知らん」 なんでもないように言い捨てる。 「寺育ちか。僧侶になるのは決まってたんだな」 「せやなあ」 とぼけた物言いがひっかかり、肘で這って近付いていく。 「俺、稚児やったねん」 「稚児……」 「平たくゆうたら坊さんの慰みもん。仏教は女を穢れと見なして交わりを禁じとるさかい、男の子どもを引き取って、小さいうちから教育するんや」 漸く言葉の意味を理解し、胸裏に純粋な怒りが湧く。 「坊さんがガキを手ごめにすんのか!?」 「仕方ないやろ」 皮肉っぽく嗤い、告白する。 「十を数える頃には寺じゅうの坊主と寝とった」 「…………」 「引いたか」 膝を掴んで俯くあおぐろに苦笑し、露悪的に開き直って続ける。 「俺、剃髪してへんやん?それも稚児だった頃の名残り。稚児には上稚児と中稚児と下稚児がおって、皇族や貴族の行儀見習いとして預けられるんが上稚児で、コイツらにはまず手ェ出さん。中稚児は頭の良さを見込まれて、僧侶の世話係に取り立てられる。下稚児は舞や歌、房術の才を見込まれて売られた孤児。俺は中と下を跨いどった。ぬばたまの髪結うて、唇に紅さして、極彩色の水干や緋袴羽織たら女童(めわらわ)と見分け付かんて評判やったねんぞ」 長く器用な指が一房髪を摘まみ、ひねくり回す。あおぐろの脳裏では、濁世の幼い体を肉欲の権化が貪っている。 「ほんでな、稚児の訓練ちゅーんがこれまたおもろいねん。菊座に椿油を塗りこめて珠を」 「よせ!!」 耐えきれず制す。 濁世が目を丸くする。 「……そういうのやめろ。平気なふりして傷口ほじくり返すな」 「昔の事やし」 肩を竦める濁世を睨み据え、断固たる口調で繰り返す。 「全然面白くねェ。胸糞悪ィだけだ」 「潔癖」 「お前がスレすぎなんだ」 「身の上話は退屈か」 「今は?一人で旅してんだろ」 「色々あって元いた寺を追ん出てな。化け物退治しながら全国行脚、ぶらり諸国漫遊。お前は?」 「ほっとけ」 「俺は東国の物好きに拾てもろたで。だからまあ、正確にはその人の命令で全国津々浦々渡り歩いとるわけ」 「武将か?」 「平安時代から続いとる術師一族の当主。あやかし調伏なら任せとけ」 「ふうん」 「西国は尾張の阿呆がやんちゃして居辛くなったさかいに。坊主を目の敵にしとるか知らんけど、比叡山焼き討ちとか無茶しよる」 「知ってる。天下統一の野望掲げてるんだろ」 「天守閣は伏魔殿や、国盗りに勝ったかて欲は尽きんし満たされん。日の本の次は海の向こうの外ツ国に手ェ伸ばすで、きっと」 「どうでもいい。腹一杯食えりゃそれだけで……」 「俺も多くは望まん。うまい飯食ってええ女抱いて、あったかい布団で寝れたらそれでええ」 「坊主が女犯の禁犯すのか」 「破門された身や」 「やっぱエセじゃん」 「法力はホンマもん」 吹き出して笑い合い、ほんの少し空気が和む。 寝ずの番を交代したものの、あおぐろはちっとも眠くならず、濁世に夜伽話をせがんだ。 全国津々浦々を旅して回ってるというのはハッタリじゃなさそうで、濁世はいろんな土地の伝承や昔話を教えてくれた。 「東北にはおしらさまっちゅー養蚕の神様がおって、桑の木で作った一尺の棒の先に馬の顔を彫って、布で重ね着させたんがご神体なんや。もとは桑の木で縛り首にされた馬が化けて出たもんで……」 久方ぶりに楽しいひとときを過ごし、気付けば瞼が重くなる。あおぐろは意識を手放した。 近くに落ちた雷に叩き起こされ、薄っすら目を開ける。しめやかな衣擦れが耳に付き、ゆっくり首を回す。 濁世は壁を背に腕を組み、規則正しい寝息を立てていた。寝ずの番は尼僧に回ったらしい。 外はまだ暗く、時折走る稲妻が障子を照らす。 無意識に自分の位置を確め、残る一人の尼僧をさがす。いた。濁世の前に立ち尽くし、無言で見下ろしている。 次の瞬間、予想外の事が起きた。尼僧が大胆に衣を脱ぎ、艶めかしい裸身をさらしたのだ。 夜這い。 目のやり場に困り顔を背け、しかし好奇心に打ち勝てず、固唾を呑んで成り行きを見守る。 貞淑な風貌に反し、尼僧は豊満な肉体を誇っていた。瑞々しい乳房の先端は赤く尖り、腰は扇情的にくびれ、股の淡い翳りを火影が照らす。 濁世は目を閉じたまま動かない。尼僧が頭巾を脱ぎ、滝の如く黒髪を下ろす。 「法師様……お休みになられましたか」 肩を掴んで軽く揺する。甘く囁いてしなだれかかり、無抵抗な濁世の手を乳房に導く。 「嗚呼……本当に美味しそう」 尼僧が淫猥な笑みを浮かべ、唇をなめる。濁世の手が乳房に沈む。あおぐろは見た。尼僧の頭皮を突き破り、一対の角が生える。 アレは人間じゃない。 「濁世!!」 声を限りに叫び、今度こそ走り出す。肉ミミズは怖いが、鬼ならば怖くない。 何故なら― 「邪魔だ小僧!!」 振り向きざま目と口を吊り上げた尼僧が、恐ろしい本性を剥き出して絶叫する。 刹那、あおぐろの体は蹴鞠のように跳ね飛んだ。 「ぐふっ!」 背中から思いきり叩き付けられ、あえなく壁をずり落ちていく。折れた肋骨が内臓に刺さり、咳き込んで吐血する。 霞む視界の向こうで尼僧に化けた鬼女が勝ち誇り高笑い、凶悪に伸びた爪を振りかざす。 「あとでゆっくり食ってやる。そこで見ておれ」 「だく、せ、起きろ」 ほっときゃいい。自分だけ逃げりゃいい。そうするのが正解だとわかっていながらできないのは、不幸な身の上話を聞き、旅の話に心躍らせてしまったから。 一宿一飯の恩?冗談じゃねえ。大前提として此処はアイツの寺じゃない、濁世は破れ寺に縁もゆかりもない人間だ。でも、だけど、大根を分けてくれた。 『逃げて、あおぐろ』 土間に組み敷かれた母を回想し、切々とこみ上げる後悔に胸が軋む。 そしてあおぐろは鬼になる。 身の内の力を解き放ち、脚を撓めて高々と跳躍し、鬼女の背後をとる。 「ッ!?」 すかさず全体重を乗せた剛腕を打ち込むも、紙一重で躱された。鬼女の顔に焦りと驚きが過ぎる。 「貴様、同族か!」 めきめきと額を割って角が伸び、全身の肌が青黒く変色していく。白目は黒く染まり、虹彩だけが爛々と燃え上がる。 「……否、違うな。半分人か、汚らわしい」 異形の血が覚醒し急成長を促す。 見た目はとうに成人を迎え、身の丈六尺の筋骨隆々たる益荒男(ますらお)に変貌したあおぐろの耳朶を、凛とした声が叩く。 「なるほど、黒く幼いと書いて(あおぐろ)か」 濁世が決然と立ち上がり、まっすぐ構え直した錫杖の切っ先を鬼女に擬す。 「チッ」 鬼女が舌打ち。 「ここに来た目的は鬼退治。合戦場を渡り歩いて死肉を食らい、里を襲っとるんはお前やな。か弱い尼僧のふりしたかて無駄や」 「狸寝入りか」 「初っ端ならやりやすかったけど、さすがにそこまで上手くいかん。せやから最後まで泳がした」 もし寝ずの番一番手を務めていたら、まず間違いなく濁世とあおぐろが餌食になった。 「百戦錬磨のこの俺に色仕掛けとはええ度胸しとるやん、褒めたる」 居丈高に言い切ったのち、憎たらしい笑顔で挑発する。 「せやけどアンタは趣味ちゃうで、堪忍な」 「生臭坊主が!」 「おっと」 十指から爪を伸ばした鬼女の跳躍を見切り、素早く飛びのく。すかさずあおぐろが肉薄、細首に狙い定めて腕を薙ぐ。 「甘い!」 音速の動きであおぐろの懐に踏み込み、蹴り飛ばす。またしても跳ね飛び、不動明王像に激突してもろとも崩落を引き起こす。 鬼女と対峙した濁世は片手に錫杖を預け、片手で複雑な印を切り、不動明王の真言を唱える。 「ノウマク サンマンダ バザラダン センダ マカロシャダ ソワタヤ ウンタラタ カンマン」 すべての諸金剛に礼拝する。怒れる憤怒尊よ、砕破せよ。 風圧で捲れた前髪の奥、切れ長の双眸が凄まじい眼光を放ち、闘気を練り上げた颶風が吹きすさぶ。 印を結ぶ。切る。縛す。締め上げる。 「ッ、往生際悪い!」 ぶちぶち音をたて、不可視の結界が引きちぎられる。 鬼女の口が耳まで裂け、尖った牙がせり出していく。床に落ちた唾液はたちまち蒸発し、板を溶かす。 不動明王の下敷きになり、あおぐろは見た。 蝋燭の火が消えた本堂を飛び回り、人理を外れた法師と鬼女が死闘を演じる。 鬼女はおどろに乱れた黒髪を逆立て、濁世が矢継ぎ早に飛ばす縛印をことごとく躱す。 鋭い爪で障子や壁を抉り穿ち、異常な瞬発力でもって急接近する鬼に対し、濁世は四肢の延長の如く縦横斜めに錫杖を操り、烈風を巻いて旋回させ、颯爽と翻る袈裟の残像も鮮やかに斬撃を受け流す。 鬼の爪牙(そうが)が錫杖と軋り合い、剣戟の火花を散らす。 稲光に白む障子に影が映り、膨らんではまた縮み、異形の触手が雪崩を打って踊り込む。 濁世がダンと床を踏み鳴らし、錫杖を垂直に打ち下ろす。 「来い、九泉」 空気が歪んだ直後、濁世の足元の床が弾け飛び、巨大な化け物が召喚された。 「食べたぶんきっちり働いて返してもらうで」 下僕に向けた独白が、惨めに瓦礫に埋もれたあおぐろの闘志を呼び覚ます。 濁世の足元の影が走り、鬼女に奇襲を仕掛ける。間一髪躱して後退、天井を蹴って死角を急襲。 裂帛の気合を込め、腹の底から吠える。 床を踏み抜く勢いで跳躍し、梁を蹴って軌道を転じ、濁世の頭蓋を割る寸前の腕を捕らえた。 「何」 ぶちぶち引きちぎり、遠方へ投擲する。上向いた濁世の顔を血の雨が叩く。 鬼女の喉笛にかぶり付いたまま縺れ合い落下、錐揉み転がりながら更に牙を突き立てる。 そこへ触手の化け物が襲いかかり、鬼女の四肢を搦めとったかと思いきや地の底深く引きずり込む。 壮絶な断末魔が長く尾を引き、余韻を吸い込んだ静寂が降り積もる。 「はあっ、はあっ、はあっ」 隆起した筋肉が蒸気を噴き上げ萎み、力を使い果たした背丈が縮んでいく。 「でかした」 元の貧相な少年に戻り、ぐったり倒れ込むあおぐろの体を濁世が支える。 「お前は鬼?人?どっちや」 「……人でいたいと思ってる」 濁世の腕に縋って顔を上げ、きっぱり答える。 「おっかあと約束したんだ、人でいてえから人の肉は食わねえって」 あおぐろは戦で焼かれた村の生き残りだ。唯一の身内の母は死んだ。あおぐろのせいだ。 あの日。 村を襲った兵士たちは家々を荒らし回り、まだ若いあおぐろの母を組み敷いた。 優しい母は自ら犠牲になり我が子だけでも逃がそうとしたが、あおぐろが怒り狂った末に暴走し、全部無駄に終わってしまった。 「鬼の子を産んだおっかあは村中に疎まれた。だけど最期まで、俺には優しかった」 「あおぐろて名前はおかんが付けたんか」 「親父は黒い鬼だった。その息子だから幼い黒と書いて黝」 「好いとったんやな」 合戦場跡にはいくらでも、それこそ腐るほど死体が転がっている。よって飢えを凌ぐだけなら簡単だが、あおぐろは人の肉に決して手を付けず、雨や泥水で喉を潤し、人の畑から盗んだ野菜で腹を満たした。 「俺の体は半分鬼だから、普通のヤツよか頑丈にできてるんだ。一週間飲まず食わずでも死んだりしねえ」 足裏の怪我は既に完治していた。 漸く雨が上がり、永い夜が明ける。 傾いで外れた障子の向こうから清冽な朝日がさし、あおぐろと濁世が生き抜いた世界を美しく輝かす。 「濁世……アレがおきゅうさまなのか」 「俺は九泉て呼んどる。下僕になったさかい、新しい名前やらんとな」 「今はどこに」 「俺ん中」 錫杖を肩に担いだ濁世が痛快に笑い、あおぐろの背中を強く叩く。 「覗き見は感心せんで、坊。ばっちり見とったろ」 「なっ」 「まぜてほしかったん?」 妖艶な流し目をよこされ、むんずと胸ぐらを掴んで怒鳴り飛ばす。 「違ッ、っ、何だよ!九泉は下僕だろ、好き放題されてんじゃねえよ!」 「化けもんかて食餌は必要。精気を分け与える代わりに力を貸すて契約やもん、反故にしたらどえらいことになる」 「だからってあんな……毎晩?」 あおぐろになじられてもどこ吹く風と、手を組んで伸びをする。 「寺でされとったことに比べたらなんぼかマシ」 続く言葉が出てこず、もどかしげに俯くあおぐろの頭を無意識になでかけ、ハッと手を引っ込める。 「あかん、虱が伝染るとこやった」 「帰んのか」 「ご当主はんに呼ばれとるし。お前はどないする」 「……」 「行くあてないんやろ」 曙の空は綺麗に漱がれ、朝露に濡れた草木が目覚め、小鳥の囀りを合図に新しい一日が始まる。 あおぐろは濁世に向き合い、ためらいがちに手を伸ばし、ちょこんと袈裟を掴んでねだる。 「……俺も連れてけ。その、用心棒に」 「まだお話聞き足りないんか」 変なヤツ。胡散臭いヤツ。 その印象はまるで変わらないものの、この人は皆に忌み嫌われる、濁世の本性を受け入れてくれた。 「お前と一緒に行けば飯に困らねえ」 あおぐろは人を食えない。妖怪は人ではない。化け物退治を生業にする濁世と旅する限り、飢える心配はしないですむ。 「契約成立」 あおぐろを伴い下山する折、山の入口の地蔵が目にとまる。ふと後ろを覗き込めば、草叢にしゃれこうべが埋もれていた。 「鬼婆に喰われた子供の弔いに建てたのかな」 赤の他人の子供に憐憫を催し、前にしゃがんで合掌する。瞠目する少年の正面、地蔵の隣に童女が現れ、満足げに微笑んで消えていった。
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