ロチョラーシュ

1/1
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ

ロチョラーシュ

 伯爵令嬢クラーラがホテルを飛び出してドナウ川沿いの歩道を走っていたとき、ブダペシュトは建国千年の祝祭を目前に控え活気と喧騒に満ちていた。春の麗らかな陽射しが水面(みなも)とともに可憐に踊り、川向こうのブダの丘から流れ落ちる風はすみれの香りを乗せてクラーラの背中を後押しした。 「お嬢様ー! どうかお戻りくださいー!」 「ごめんなさい、ぜったいに嫌! ──待って車掌さん、わたしも乗るわ!」  クラーラは箱を腕に抱えたまま、ドレススカートの重みなど感じさせない軽やかな足取りでトラムに駆け込んだ。後を追いかけてきた中年男性と若い女──従者であろう者たちが手を伸ばして引き止める前に、晴天の下でぴかぴかと輝くサンイエローのトラムは助走を始めていた。 「お待ちくださいお嬢様、クラーラ様っ!」  線路前に立ちつくす従者たちが、あっという間に遠くへ離れていった。トラムは併走していた辻馬車を追い越しながら道を曲がり、セラミックタイルの散りばめられた新築と古くも重厚な建築が立ち並ぶペシュト地区の市街地を軽快に走っていく。飴色の木組みで彩られた車内は、街の喧騒とは別世界のように人影はまばらだった。 (……酷い格好ね)  窓ガラスに映る自身の姿にため息をついて、クラーラは身だしなみを整える。シニヨンにまとめたチョコブラウンの髪が崩れていないか確かめながらキャノチエハットの傾きを整え、サイズの合っていない大きなジャケットにできた皺をぴんと正す。くすんだ群青色のドレススカートについた土埃をそっとはらって、乱れた息を整える。もうすぐ十八歳を迎える「伯爵令嬢」というイメージからはほど遠い「童顔でやせぎすで地味な外見」だが、クラーラにとってはこれが普段からの装いだった。 (油断しないでクラーラ。せめてでも直してもらって……でも──あっ)  ガタンっと、トラムが振動したはずみでクラーラの足がもつれた。箱を抱えたまま後方に大きく揺らいだ身体は、しかし何者かにしっかりと受け止められる。クラーラの視界の片隅にすみれ色のドレープが揺らめいて、バラのたおやかな香りが鼻腔をくすぐった。  クラーラは硬直したまま、視線だけを自分の肩に落とした。絹の手袋に包まれた大きな手と、刺しゅうのほどこされたドレスの袖口が目に映る。おそるおそる振り返って顔を上げれば、一人の〈貴婦人〉がクラーラの両肩を掴んで支えたまま見下ろしていて──ドレスの色と同じすみれ色の瞳と目が合うやいなや、クラーラは思わず息を呑んだ。 (なんて、きれいなひと)  花とリボンレースの飾りが華やかなキャペリーヌハット、編みこみでまとめあげられたハニーブロンド。薄化粧ながらも美しく整った顔立ち。すみれ色のワンピースドレスは一見すっきりとしたシルエットだが、そこかしこに花柄の艶やかな刺しゅうが施されている。繊細な造りのドレスはきっと、名の知られたデザイナーの手によるものだろう。まさに貴族階級の〈貴婦人〉にふさわしい出で立ち、なのだが。 (……あら?) 〈貴婦人〉に見蕩(みと)れたまま、しかしクラーラは小さな驚きを隠さずにはいられなかった。ジゴ袖とコルセットによるドレスの曲線美は、流行に敏感な麗しい貴婦人そのものだ。しかし、自分の身体を支えてくれたときに受けたがっしりとした感触は間違いなく若い青年の力強さであり、たとえ細身と言えども男性特有の体躯や筋張った輪郭は、間近で見れば隠しとおせるものではなかった。 〈貴婦人〉が、目深にかぶった帽子の下で首を傾げている。体重を預けっぱなしであることにようやく気がついたクラーラは、慌てて身を引いて向き合った。 「ありがとう、助かったわ」 〈貴婦人〉は応えなかった。ただまじまじと、クラーラを支えていた自身の両手を見つめている。はっとしたクラーラは、迷わず片手で〈貴婦人〉の手を取って握りしめた。 「ごめんなさい、お召し物を汚してしまったかしら! わたしったら、ちゃんと土埃を払いきれてなかったのかもしれない。こんな綺麗にしてらっしゃる方に、なんて無礼なことを……修繕代はお支払いするから、遠慮せずにおっしゃって!」 〈貴婦人〉は手を握られたままきょとんとしていた。先から一度も口を開かない〈貴婦人〉の態度に、クラーラは不安に駆られた。 (もしかして、わたしの話すハンガリー語が聞き取りづらい……?)  自分では話せているつもりだが、気を抜くとすぐに日常会話だったドイツ語やその訛りが混ざってしまうのは悩みの種だ。それに、慌てるあまり話している内容もなんだかしどろもどろになってしまっている。クラーラの胸中にずきっと痛みが走った。 (おかあさま、天国で嘆いているわね……)  もう淑女と呼ばれて差し支えない年齢なのに、自分はなんて幼いのだろう。そう、クラーラが気落ちしかけたときだった。 「きれい……今の……私が……?」  絞り出された一言が〈貴婦人〉のものであることに、クラーラが理解するまでほんの少しだけ時間が必要だった。穏やかなテノールの、男の人の声だった。  青みがかった琥珀色の瞳の中で、〈貴婦人〉が顔を(ほころ)ばせる。そのたおやかなほほえみに、クラーラの鼓動が跳ねあがった。 「ありがとう、クラーラ嬢。汚れてなんていないから、気に病まないで」 「……そう? ならいいのだけど──あら、どうしてわたしの名前を?」 「……貴女を追いかけてきた方々が、貴女に向かってクラーラ様って大声で叫んでいたのを聞いたから。さるご令嬢がおしのびで出かけているとお見受けしたけど、合ってる?」 「あっ、えっと」  クラーラが目を泳がせて口ごもっていると、「まずは座ろうか」と〈貴婦人〉が苦笑した。まるで夜会のワルツに誘うかのように〈貴婦人〉はクラーラの手を取りかえし、狭い車内を先導していく。  ボックスシートの脇では、ウエストラインの絞られた英国風の紳士服に身を固める丸眼鏡の青年が、憮然とした表情で二人を待っていた。クラーラは促されるまま進行方向に向かって座り、〈貴婦人〉が向かい合って座る。丸眼鏡の青年はというと、帽子を軽くあげてクラーラに一礼こそしたものの遠慮する様子もなく〈貴婦人〉の隣に座り、〈貴婦人〉に小さく耳打ちしたあと顔を背けてしまった。気難しげな表情で腕を組み、指輪をはめた薬指を苛立たしげにトントンと叩いている。クラーラがはらはらしていると、「クラーラ嬢」と〈貴婦人〉に声をかけられた。 「よかったら私とおしゃべりでもしない? 私のことは、フランカと呼んでもらえたら」 「フランカ? イタリア風のお名前なのね」 「ふふ、気になるのはそこなんだ? ……ご先祖はドイツ人らしいけど、私はハンガリー生まれのハンガリー人だよ。この姿でいるときは、身内からそう呼んでもらってるんだ」 「そう。わかったわ、フラウ・フランカ」 「……フラウ?」 〈貴婦人〉──フランカが目を丸くしたあと、くすぐったそうに笑った。 「私の性が男だと気づいてるのに、フラウと呼んでくれるんだね。嬉しいなあ」 「だってフラウ・フランカ、あなたったらまるで妖精の女王様(ティターニア)みたいなんだもの」 「妖精の女王様(ティターニア)だって? 初めて言われた」 「そんなはずはないわ、わたしでなくてもフラウと呼びたくなる人は絶対にいるわ……フラウ・フランカは殿方の服も着るの?」 「普段は性別相応の格好をしてるよ。女性の衣服を着るのは家で過ごすときや身内のサロン、それに夜の観劇ぐらいなんだけどね。今日は度胸試しがてらの賭けをしてるんだ」 「賭け?」 「うん、私はなかなか決断ができない人間でね、見かねたエデン……隣に座ってる友人からけしかけられたんだよ。『真っ昼間の街中をその姿で歩いてみせろ。もう性別をごまかすのは無理だと思い知れ、バレたら腹をくくってドレスは脱げ』ってね」 「えっ……ええっ! わたし、そんなつもりは……どうしましょう……!」  慌てふためくクラーラを前に、フランカは大丈夫となだめる仕草をした。 「貴女は無垢な人なんだね。……ねえエデン、これを『バレた』と数えてしまうの?」  丸眼鏡の青年──エデンの眉がぴくりと動いた。フランカとクラーラを一瞥(いちべつ)するが、すぐにまた視線を戻してしまう。よほどご立腹らしい。 「まあつまり、結局賭けどころじゃなくなったわけだから、気にしないで。それに、昼間の街中をドレスで歩くのって思ったより楽しいね。これは癖になりそう」 「……ドレスを着るのが楽しいのね?」 「うん、大好きだよ。とても楽しい。……クラーラ嬢は、ブダペシュトに住んでいる方ではないよね? どちらまで向かうの?」  クラーラは言い(よど)んだ。込み入った事情なのでうまく話せる自信がなかったが、自分のような異邦者へ気さくに話しかけてくれるフランカの心遣いを無碍(むげ)にはできなかった。 「本当の目的地は、反対方向の、ヴァーツィ通りにある帽子屋さんなの。おとうさまがウィーンで買ってきてくださった帽子の飾りが壊れてしまって、なるべく早く直したくて。でも、見つかって捕まりそうになったから、あとで乗ろうと思ってたトラムへ乗りこんじゃった。アンドラーシ通りまで乗ったら、辻馬車を捕まえてヴァーツィ通りに戻るわ」 「ああ、何を抱えてるのかと思ったら帽子だったのか……大事な予定があるんだね?」 「大事……うん、大事と言えばそうね」  トラムがガタンと揺れながら停車する。クラーラがふと周囲を見回した。ロングシートに座る婦人は凛としたまなざしで外を眺めているし、途中で乗ってきた青年たちはけらけらと談笑に勤しんでいる。各々が思いのまま過ごしているのは、お互い様のようだった。 「わたし、一応婚約を控えているの。二週間後に初めて相手の方とお会いする予定で……おとうさまのためにも、間に合わせたいの」 「婚約──そっか、それなら一大事だね。一応って言ってたけど、不本意なの?」 「あっ……違うの。その、実感がないのよ。きっと相手の方に断られるから、せっかく取り持ってくれたおとうさまに、申し訳ないと思ってて」 「……どういうこと?」  フランカが怪訝な顔つきになるのも無理はないだろう。クラーラは寂しげに笑った。 「わたしは養子なの。正統な後継者ではないから、資産相続の権利がなくて……つまり、わたしと結婚したって相手方の家に利益なんてないのよ」  クラーラは自分の口からこぼれ落ちる言葉を堰きとめられなかった。出会って間もないフランカに対してなぜ衝動を抑えられなかったのか、わからなかった。 「おとうさまは大丈夫だと言っていたけれど、ご本人から正式なお返事を頂いてないことは知ってるわ。お優しい方だそうだから、きっとどう断ったらいいか頭を悩ませてるのよ。だってわたしったら、本当に何も持ってないんだもの。……送っていただいた写真も、変に期待してしまうといけないから開かないようにしてるわ」 「──そんなっ! 違う、クラーラ嬢。貴女は心根の美しい、魅力的な女性だよ」 「ありがとう、フラウ・フランカ。でもわたし、あなたのおかげで間違いに気づけたわ」 「……間違い?」 「わたし、勉強はがんばったの。跡継ぎがいなくて働きづめだったおとうさまのお役に立ちたかったから。……でも、わたしったら自分の容姿にはまるで無頓着で、興味を持てなかった。おかあさまが遺してくださった綺麗なドレスを着てみても、わたしには贅沢としか思えなかったんだもの……でも、とても楽しそうにドレスを着ているあなたが、まぶしい。いいなあって思ったの。おかあさまが元気だったときぐらい、素直に楽しめばよかったんだわ。そうしたら、こんな後悔は、きっと……わたしったら何が言いたいんだろう……ごめんなさいね! 会ったばかりなのにこんな話をしてしまって! 聞いてくれてありがとうフラウ・フランカ。わたしは乗りかえるけど、あなたたちはどちらへ──」 「クラーラ嬢」  立ち上がろうとしたクラーラを引き留めたのは、フランカだった。 「あの帽子屋は人気店で、顧客ではないクラーラの依頼は後回しにされてしまうと思う。……同じヴァーツィ通りにいい仕立屋がある。帽子職人のつてがあるから、飾りの修繕ぐらい引き受けられると思う。きっと最優先で直してもらえるよ」 「本当に? フランカ、ぜひ教えて──仕立屋? それって」 「フランカ! まさかおまえ……!」  初めて、エデンが口を開いた。勢いよく立ち上がるなり驚愕のまなざしで見下ろしてくるその青年を、フランカは見上げた。覚悟を決めたような、まっすぐなまなざしだった。 「エデン、引き分けだよ。これからも、私が私のまま生きていくことを見守ってほしい」  エデンは何か言い返そうとして、ぐっと口を(つぐ)む。クラーラは戸惑いながら、おろおろとフランカとエデンを相互に見た。 「引き分けって、賭けのこと? フラウ・フランカ、どういうこと?」 「──イレーシュハージ・クラーラ嬢」  フランカの呼びかけに、クラーラの背筋が凍りついた。 「……どう、して、わたしの家の名を」  ばらばらだった情報が繋がっていく感覚が、クラーラの思考を駆けめぐった。ヴァーツィ通りの仕立屋。そう、何度も訪ねようして思い留まってしまった仕立屋、その名は「ロチョラーシュ」。ユダヤ金融一族の若き実業家に才能を見出され、地主貴族でありながら、服をデザインし、仕立てる道を選んだ御方が立ち上げたお店。有産階級の若者たちの間で評判で、特に婦人ドレスの仕立てはブダペシュトで追随を許さないという。  フランカはイタリア語の女性名。ハンガリー語での男性名はフェレンツ。そう──あの方のお名前。  フランカはクラーラのあかぎれだらけの手を取って、両手で包んだ。今にも泣いてしまいそうな、それでいて慈しむようなまなざしで、呆然とするクラーラを見つめていた。 「貴女は苦境に立たされているのに、ドレスを着ている私を祝福してくれた。間違っていたのは、私なんだ。どうか私に、責任を果たさせてほしい。──私はグンデルフィンガー・フェレンツ。イレーシュハージ・クラーラ嬢、貴女の婚約者だ」  クラーラの中で、張りつめていた緊張の糸が切れる音がした。全身から血の気が引く感覚に襲われて、クラーラはあっけなく意識を手放した。     *    イレーシュハージ伯爵家は、中世から続くハンガリーの名門貴族だった。特に今代の家長たるカールマンは領地の庶民にも慕われるような人徳ある名君であり、時代の波に乗り遅れた貴族に助けを乞われれば融資や仕事の斡旋(あっせん)も拒まなかったという。亡き夫人マーリアもまた慈善活動に精を出すような敬虔(けいけん)な人柄で、誰もが(うらや)むような仲睦まじい夫婦だった。しかし不幸にも、この夫婦は実子を残すことができなかった。イレーシュハージ伯爵家は今代で幕を下ろす斜陽の一族であり、遺産は関わりの深い貴族たちに分配されることが決まっていた。  養子のクラーラが家督相続の舞台に立てなかったのは、その出自にある。実父はハンガリーのとある大貴族でありながら、実母はスラブ系農民という非嫡出子。実父の一族からは存在すら否定されたため、実父の家名を公にすることすら許されなかった子。  法の下に民族の平等を掲げながらも、貴族社会の伝統を重んじる「皇帝にして国王」が治める国、実情はドイツ人とハンガリー人の優位性が担保された社会。それがクラーラが生まれた国、オーストリア=ハンガリー帝国である。クラーラが貴族の遺産を引き継ぐ権利を持てるはずがなかったのだ。  伯爵は、たとえクラーラが実の娘でなくとも彼女を我が子として愛していたし、勉強熱心だった彼女に教育の機会を惜しみなく与えた。嫁ぎ先で苦労させないためにも、貴族の娘が集う女学校にも通わせた。しかし、いかに名君と言えども老いと病には勝てない。家長に死期が迫りつつあるならば相続に関わる貴族たちの往来が増えていき、伯爵家内は彼らの都合のいいように再編されていく。後ろ盾のないクラーラの立場は悪くなっていくばかりだった。  自分の意識がはっきりしているうちに後見人を見つけねばと伯爵は焦るが、いわくつきの出自である娘を引き受ける貴族は早々現れない。藁にもすがる思いで伯爵が最後に門を叩いたのが、タトラ山脈の(ふもと)に領地を持つ地主貴族のグンデルフィンガー家だった。  グンデルフィンガー家こそ、先代で領地経営が傾いて一族諸共落ちぶれかけたときに、イレーシュハージ伯爵家の融資を受けて経営を立て直した一族だった。情に厚い若き現当主は「恩を返す機会がようやく訪れた」と喜んでクラーラの後見人となることを承諾したが、その際に「恐れおおくも」と前置きして伯爵に一つの提案をした。──もう二十半ばになるというのに仕事を理由に独身でいる兄フェレンツと、令嬢クラーラの結婚を提案したのだ。  少し頼りない印象だが、兄は立ち上げた事業を軌道に乗せているし、しかも彼にはブダペシュトの金融一族ハトヴァニー家がついている。このハンガリーにおいて、彼らが味方であることほど心強いものはない。令嬢は安定した生活を手にすることができると。  かくして、グンデルフィンガー・フェレンツとイレーシュハージ・クラーラの婚約が内定されたのだった。本人たちの意志は確認されないままに。     *    見慣れない天井が、クラーラの瞳に映った。薄暗い室内でクラーラは身体を起こそうとするものの、身体が重くてすんなりと起きられない。まとめていた髪は解かれて、癖のない髪の毛が汗ばんだ頬にまとわりついてくる。仕方なくクラーラは寝返りを打って、周囲に目を配らせた。 「わたし、逃げて……トラムに乗って……ここは……?」  どうやら、長椅子の上で毛布をかけられて眠っていたらしい。長椅子は肌触りのいいビロード生地が貼られていて、心地がいい。近くのテーブルには水差しとぬるま湯の張られた桶が置かれており、ハーブとタオルが浮かんでいる。向かいには自分が寝ているものと同じ長椅子が配置されていて……一人の青年がぴんと背筋を伸ばして腰掛けていた。  青年は恭しい手つきで真白(ましろ)のキャペリーヌハットを持って眺めている。クラーラが大事に抱えていた箱に入っていた、「婚約の日に被ってきなさい」と父がくれた帽子だった。 「ああ、よかった。起きたんだね! ……覚えているかい、トラムで私と話しているときに倒れてしまったんだ」  聞き覚えのある柔らかな声を室内に響かせて、青年は帽子を長椅子に置いて立ち上がった。長く伸ばしたハニーブロンドの髪をゆるやかに編んで肩に垂らし、スカーフを首元で結んでいる。花と(つる)の踊る刺しゅうがなされた華やかなベストを、腕まくりしたシャツの上に羽織っている。黒一色のパンツスーツにヒールが高めの革靴。男性としては細身だが、姿勢が良くてすらっとした印象だ。  青年は少しかがんで、クラーラを覗き込んでくる。バラの残り香が鼻を掠め、すみれ色の瞳と見つめ合ったとき、ようやくクラーラは目の前の青年があの美しい貴婦人──フランカであることを理解した。紳士服を着ていても、柔和な雰囲気と慈しむようなまなざしは、間違いないようがなかった。 「フラウ・フランカ……フェレンツ様! ごめんなさい、わたし、あなただと気づかないなんて失礼なことを! ──うっ」  クラーラは勢いまかせに身体を起こしたものの、ぐらりと大きく揺れる視界に抗えなかった。長椅子から落ちそうになった弱々しいその身体は、フランカの引き締まった腕に抱きとめられた。  視界が回って気持ち悪い。身体が(なまり)でも詰め込まれたかのように重くて力が入らない。吐き気に襲われたクラーラが咳き込むと、隣に座ったフランカがクラーラを支えたまま背中を優しくさすってくれて、水を飲ませてくれた。労ってくれている。その気遣いが、今のクラーラの心にどうしようもなく沁みた。 「いいんだ、もう大丈夫だから。……ハウスメイドに部屋を掃除してもらってるから、終わったらベッドに運ぶよ。もう少しだけここで辛抱してほしい」 「……ここは?」  くらくらする思考に鞭打って、クラーラは薄暗い室内を見回した。カーテンで仕切れるようになっているドレッサーの近くにはドレスが数着は並んでいて、壁沿いの棚には目のくらむような数の布やレース、リボンが積み重ねられていた。 「私の店……ロチョラーシュの店内だよ。同じ建物の一番上の階が私の住居になってるんだ。今日はもう店を閉めてるから、人目は心配しなくていいけど──熱が上がってるね」  フランカに寄りかかりながら、クラーラは時折身体をぶるりと震わせている。フランカが苦しげに眉根を寄せた。 「寝ている間に医者に診てもらったけど、過労と睡眠不足、それに栄養も足りてないって言われた。……クラーラ嬢がこんなことになっているとも知らないで、私は……もっと早く迎えに行っていればよかった」 「──あの、帽子は? 帽子は直る?」 「え? ──ああ、伯爵から頂いたという帽子だね。本体はそこまで痛んでないから、飾りさえ直せば使えるよ。あのエーデルバウアーの代表作を選ぶとは、伯爵の審美眼は曇りがない。貴女にとても似合っている」 「直るのね、帽子は直るのね? よかった……帽子だけでも直せるなら、よかった……」  クラーラがようやく安堵の息をこぼしたとき、ドアをノックする音がした。「失礼する」と告げて入ってきたのはエデンだった。 「尾行してきていた輩はルユザがあらかた追い払った。やはりここ数日、店の周りをうろついてた不審者たちだったらしい。クラーラ嬢がフェレンツを頼る前に連れ戻したかったんだろうな。……家の護衛も呼んでルユザと見張らせてるから、無理矢理入ってくることはないと思う」  エデンは痛みの目立つ古びたトランクケースを抱えていた。クラーラのうつろな瞳に、小さな光が宿った。 「ホテルのフロントから荷物も無事に回収できた。ハトヴァニーの系列だったから、話が早かったよ」 「さすが、ハトヴァニー夫人とハトヴァニー男爵。頼りになる」 「当然だ。ハトヴァニーの縄張りに礼もなく踏み入ってくるような愚か者に容赦は──クラーラ嬢?」  クラーラが震える細い腕を、エデンが抱えているトランクに向かって伸ばした。フランカとエデンが目を合わせたあと、エデンはテーブルにスペースを空けて二人に見えるようにトランクを置く。フランカが、宙を何度も掴むクラーラの手を優しく握り引き寄せた。 「開けていいかな?」  フランカが尋ねると、ためらいがちにクラーラは頷いた。エデンが慎重な手つきでトランクを開けて──フランカとエデンは言葉を失った。フランカの瞳に静かな怒りが宿り、クラーラの手を握るそれに力がこもった。 「……酷いな」  苦渋を滲ませた表情でエデンが丁重に中から取り出したのは、鋭利な刃物で引き裂かれた花嫁衣装のドレスだった。上質な絹のサテンとレース生地をあますことなく使い、パールをふんだんにあしらったドレス。高貴で愛らしいデザインだったのだろうが、今は見る影もなかった。 「おかあさまが、亡くなる前に頼んでくださってたの。帽子と一緒に隠してたのに、見つかってしまって……目の前で──」  クラーラの瞳から大粒の涙が零れ落ちる。 「使用人の方たちと同じ扱いになってもいい。わたしは本来、そういう人間だから。でも、おとうさまとおかあさまのを壊されたことだけは、どうしても耐えられなかったの。だから、わたしは」 「逃げ出してきたんだな。プレスブルクのイレーシュハージ邸から。おいフェレンツ、娘を守れないほど伯爵の具合は悪いのか?」 「伯爵は今、バーデン・バイ・ウィーンで療養しているはずだ。おそらくクラーラ嬢の身に起こってることを知らない。二週間後、クラーラ嬢の後見と婚約に関して正式な話し合いをするために弟と訪ねる予定だったんだよ。……クラーラ嬢」  フランカはクラーラの手を持ち上げて、敬うようにその甲にキスを落とした。 「プレスブルクからブダペシュトまでの長旅をよく一人で……一人で逃げてきたね。怖かっただろうに、すごい勇気だよ。こんなに弱っていても貴女は、伯爵と夫人から受け取った思い出を守ったんだから」 「守れてない。だって、おとうさまの帽子は直せても、おかあさまのドレスは」 「私は仕立屋だよ、クラーラ嬢。だからブダペシュトを、私を頼ることを選んでくれたんだよね? ……誇りにかけて直してみせる。伯爵に、貴女の美しい花嫁姿を見せよう」  クラーラが涙で濡れた眼を見開いた。花嫁姿を見せることの意味を悟れないほど、クラーラは幼くなかった。 「いいの? わたしでいいの? わたし、あなたに渡せるものなんて持ってないのよ」 「何を言ってるんだ。クラーラ嬢は私を祝福してくれたじゃないか。……私はね、自分の性が男であることは受け入れてるけど、ドレスを着るのが大好きで、フラウと呼ばれたことを嬉しく思うような、男と女の意識をさまよってるような人間なんだよ。だから、結婚することが怖かった。妻となる人は『男の役割だけを』求めてくるだろうと思い込んで、知らぬ間に心を閉じていた。でも貴女は、そんな私の手を取ってきれいだと祝福してくれた。私は貴女に救われたんだ。……どうか、貴女の人生に私を関わらせてほしい。貴女が美しく咲き誇れるようなドレスを縫わせてほしい。貴女に、フランカと呼ばれたい」 「……フランカ」  クラーラが、おそるおそるその名を呼んだ。頬をとめどなく流れる涙をフランカの指に掬われて、クラーラは無邪気に笑った。 「わたし、あなたのことをもっと知りたい。あなたの縫ったドレスを着てみたい。……あなたに、クラーラと呼ばれたい」 「うん。これからよろしくね、クラーラ」  不意にエデンが立ち上がって、二人に背を向けた。眼鏡を上げて目元を拭うと、「フェレンツ!」と威勢良く声を上げた。 「バーデン・バイ・ウィーンにあるハトヴァニー家の別荘は貸してやるから、急いでドレスを仕立て直せ。仕事はさぼらずにな。それと、クラーラ嬢が快復したらすみれの花を用意して改めて告白しろ。非常識だぞ」 「耳が痛い……ありがとう、親友」 「ああ、本当に骨が折れるよ! ……おめでとう、親友。クラーラ嬢は式まできちんと静養して体調を整えてほしい……フェレンツをよろしく頼む」  満面の笑みを浮かべながら、クラーラは「はい」と頷いた。     *    六月の晴れわたったある日、ブダペシュトで建国千年の祝祭が盛大に祝われていたとき、バーデン・バイ・ウィーンのとある別荘で密やかな結婚式が挙げられた。娘の晴れ姿を見届けたイレーシュハージ伯爵はその数日後、眠るようにその生涯を終えて、先立った妻の元へと旅立った。伯爵が愛した娘はブダペシュトで「ロチョラーシュの真珠姫」と謳われて、「妖精の女王様(ティターニア)」たる伴侶とともにその人生を美しく咲き誇ったという。      了
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!