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生きた証
読経を読む声が響く中、喪服を着た弔問者達が続々と献花代へと花を手向けに向かう。焼香の焚かれる匂いが部屋一杯に広がる中、武と洋子は数珠をつけて両掌を合わせていた。大会から3ヶ月経った日、精三は心不全で帰らぬ人となった。日本新記録を打ち立てたあの日の記録会は文字通り精三の生涯最後の大会になった。
「ここまで安らかな死に顔も珍しい」
と葬儀屋が言うぐらいの柔和な面持ちの精三。子孫を残し、財産を残し、そして日本記録保持者という名前まで残せた。きっと、生きているうちにやりたいことは全部果たせたのだろう。精三の気持ちは精三自身にしか分からない。でもきっと最後の最後まで健康に生きて、大きな苦しみや悔恨もなく旅立つことができたに違いない、と洋子は思っていた。
読経と説法が終わり、皆が通夜振る舞いの部屋へと移動していく。
「このたびはどうも」
洋子が部屋を出ようとしたとき、男が横から声をかけてきた。辰野だった。洋子は深々と頭を下げる。
「精三さんがチームの一員になってくれたことで、いつまでもチャレンジを続ける勇気と元気をたくさん貰いました。我々は精三さんと同じチームで水泳ができて、本当に幸せでしたよ」
不意の言葉を前に、洋子は思わず落涙した。
「涙は似合いませんよ。きっと精三さんもそう思っているはずです。ほら、ご覧ください」
辰野が精三の遺影に顔を向ける。額縁の中では文字通り「名前を残した」日の精三が優しく微笑んでいた。
【終】
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