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無謀な挑戦
「お義父さん、本気で言ってるんですか?」
顔面蒼白の面持ちで洋子が訊ねた。
「ああ、本気じゃよ」
義父の精三が答える。精三は先日91歳の誕生日を子供、孫、ひ孫達に囲まれて盛大に祝ってもらったばかり。齢はここまで重ねているが、その瞳はまるで少年のようでキラキラと澄みきっている。
「何かあったらどうするんですか?ほら、あなたからも言ってくださいよ」
隣に座っている武に洋子が発言を促す。白髪頭の武は目の前の申込用紙と参加要項を眺めた。良く言えばチャレンジ精神の塊。悪く言えば無鉄砲。そして、一度決めたら絶対に曲げない。60年以上もの付き合いになる実の息子である武は精三の性格を嫌というほど知り尽くしている。
「水泳の大会か。健康的でいいじゃないか。親父、週に2回は近所のスポーツセンターで泳いでいるみたいだし、練習の成果を発揮したいんだろう。折角だから洋子も一緒に応援しないか?」
武は暫し黙り込んだ後洋子の顔を見ながらそう言った。しかし洋子は首を縦には振らない。
「お義父さんが書いた申込用紙、ちゃんと見ましたか?」
洋子の問いに対し、武が口をつぐむ。
「ただの水泳大会ならまだいいです。でも種目が種目です。いくらなんでも無謀でしょう」
「うーん…………」
武はそう答えざるを得なかった。
「出場種目 400m個人メドレー」
申込書には独特な味のある崩し字でそう書かれていた。
競泳の400m個人メドレーはバタフライ、背泳ぎ、平泳ぎ、クロールと100mずつ泳ぐ競技。オリンピックでは過去に萩野公介選手や瀬戸大也選手、大橋悠依選手や田島寧子選手がメダルを獲得している。
「何じゃ?わしが溺れるのを心配しとるのか?」
涼しい顔で精三が問いかける。
「勿論ですよ。あのバタフライを100mも泳いで疲れ切った後にあと300mも泳がないといけないんですよ?お義父さんは90歳を超えているんです。少しは身体のことを考えていただかないと」
水泳教室でバタフライを25m完泳するだけでヘトヘトになっていた記憶が鮮明に残っている洋子にとっては、精三の挑戦はどこをどう考えても無謀なものなのである。しかし精三はどこ吹く風だ。
「洋子さんはそう言うがの。わしは体のことを考えておるから水泳を続けているんじゃ。大丈夫。まだ400でくたばるほど老いちゃおらんよ」
精三はそう言って白い歯を見せながら笑った。近所のたかべ歯科の先生はこの間、この年齢で16本も自分の歯が残っているのは奇跡的だと言っていた。
「挑戦を続けてこそわしの人生なんじゃ。わしはひと華咲かせたいんじゃよ」
「でも…………」
「私からも頼む。親父の願いを叶えさせてやってくれ」
武が間に入った。洋子は深々と頭を下げる武を前に何も言い返すことができなかった。
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