いざ、レース開始

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 仰向けのまま200mのタッチを終え、平泳ぎに移る。ラップタイムは4分58秒03。他の選手は7コースの選手を除いて皆最後のクロールを泳ぎ始めている。4コースの選手に至ってはあと15mほどでゴールというところまで迫っていた。ラストスパートをかける選手たちがかき上げる水しぶきがバシャバシャと舞う中で、ゆっくりとキックを打ち、精三は1レーンのど真ん中で、左右の足を線対称に動かして水をかき分けていく。ほかの6つのレーンを泳ぐ選手に比べて明らかに細い身体の精三が打つ平泳ぎのキックは一見か弱く、か細く見える。しかしその動きは止まることなく、精三の身体は1m、また1mと確実に壁に向かって進んでいく。  ほかのコースの選手たちが1人、また1人とゴール板をタッチし審判員に促されて退水していく中で、精三は最後の100m、自由形に差し掛かった。レース開始後7分半を過ぎており、残っているのは精三ただ1人。壁を蹴ってけのびをした後ゆっくりと浮き上がり、水をかき出す。今までの3種目同様動き自体はスローではあるものの、右手と左手の動きはまるで自転車を漕ぐときのように噛み合っており、スムーズだ。  そのときだった。 「ハイ!ハイ!ハイ!ハイ!」  辰野の掛け声が響いてきた。そして、辰野と同じチームTシャツを着た複数の男女がそれに乗っかって声を上げる。その力強い声は周りの選手、周りの観客を巻き込んでいき、精三が1かき、また1かきと進むたびごとに声をあげていく人は増えていく。そして残り50mのターンを終えた頃には声援の大合唱が出来上がっていた。 「そーれ!そーれ!そーれ!そーれ!」  残り25mを示すコースロープの印を精三の右手がとらえた。周りの掛け声が変わり、全員の視線が精三に集中する。1m、また1mと黄色いタッチパネルへと精三の体は進んでいく。残り5mを示すフラッグの下を精三の人差し指が通過したところで1レーンの計時審判員が立ち上がった。右手、左手、右手……審判員が壁を凝視する中、ついに精三の右掌がゴールを捉え、審判員が計時用のボタンを押した。一体となっていた掛け声が温かい拍手へと変わった。電光掲示板に表示された9分33秒16。 ーーとにかく、無事に終わってよかった……。  洋子はプールサイドの梯子からゆっくりと退水する精三の姿を見ながら胸を撫で下ろしていた。  そのときだった。場内に盛大なファンファーレが鳴り響いた。そして軽快な音楽が会場を包み込む。 「お知らせです!」  女性の声がそう告げた。 「只今第1レーンを泳がれました山中精三さんの記録、9分33秒16は、90歳から94歳区分の本大会の大会新記録、そして…………」 「同区分における400m個人メドレーの日本新記録です!」  このアナウンスと同時に、会場には盛大な拍手が沸き起こった。プールからあがった精三のもとには辰野やチームメンバーが集まり、各々がその成果を讃えた。 「出てもらってよかっただろ?」  精三の清々しい笑顔を遠くで見つめつつ、武がそうつぶやく。洋子は穏やかな表情を浮かべながら無言で頷いた。
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