2人が本棚に入れています
本棚に追加
好き放題に伸びきった道路沿いのツツジ、ヤンチャそうなお兄様方がたむろするコンビニ。それらを通り過ぎた先の集合住宅。
塗装が一部剥げた玄関扉を開けると、ただいまも言わずに自室に入った。
糸が切れたようにベッドに倒れこむ。四畳半の和室、襖にはいくつか穴が開いていて、小学生から使っている勉強机は低くて使いづらい。
私はおもむろにスマホを取り出し、姫野健のブログを開いた。
『日本に戻ってまいりました!』
最新の記事には、ピアノやらチェロやらがズラッと並べられた完全防音の練習室の写真が載っていた。「しばらく日本にいるつもりなので、思い切って防音室を作っちゃいました!」という文字を虚な瞳でなぞる。
嫉妬する気も起きない。彼女もこの防音室でレッスンを受けているのだろうか。
「いい加減にしなさい!」
「うるせえなクソババア!」
お隣さんの毎度の親子喧嘩が響く。私がこの部屋でチェロを弾こうものなら、そこかしこから苦情がやってくるだろう。
住む世界が違う––––
そのまま別世界で幸せに生きてくれたら良かったのに、彼女は私の隣へやってきた。遠くにいれば穏やかに眺めていられたのに、隣にいては見上げる首が痛くて仕方がない。
溜息を吐いて天井を仰ぎ見ると、ノックもせずに母が襖を開けてきた。
「帰ってきたなら教えてよぉ。晩御飯食べるでしょ?」
「うん」
「なあに元気ないわね。あ、もしかして恋?」
いい歳をして西部と同じからかい方をする母に呆れる。
「そんなわけないでしょ」
「なによつまんない。高校生なんだから、もっと青春しなさいよ」
母は何の気なしにそう言って居間へ戻っていった。私は心が沈められる思いがした。傍からは、私はつまんない高校生活を送っているように見えるんだ。今日まで過ごしてきた毎日は、一般的な青春の基準を満たしていないんだ。
私にだって甘酸っぱいと言えるような経験の一つや二つくらいある。想いの丈を手紙に綴った時などは、胸が高鳴って世界の彩度が上がって見えた。ああいうのを青春というのなら、確かに今の心境は程遠い。
二人きりの教室で握られた右手の熱を思い出す。あのまま悠人の手を振り解かなければ、私はその青春とやらを送れていたのだろうか。はたしてそれは、本当に私が望むものなのだろうか。
どんな選択をしても、姫野葵の前では不正解な気がした。
最初のコメントを投稿しよう!