金曜日

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金曜日

 今日は一日個人練だ。いつもなら帰りのホームルームが終わるや否や楽器庫へ駆けて行くけれど、どうにも気が乗らずダラダラと帰り支度を続けている。    私の斜め前の席では、クラスの一軍女子たちが化粧直しを始めた。スカートを短くし、ビューラーでばっちり持ち上げた睫毛にマスカラを塗る。教室中にマニキュアのツンとした匂いと香水の甘ったるい香りが広がる。    私は自分の手をぼんやりと見た。深爪になるほど短く切りそろえた爪、左手の指先は弦を押さえ続けて分厚くなっている。  気が散るからと後ろで束ねただけの髪の毛に、顎のニキビは図々しくも居座り続けている。  これはチェロに集中するための代償だったのに、姫野がそれを否定する。あんなに上手なのにあんなに可愛い。姫野のせいで代償はただの言い訳にされる。  一軍女子に嫉妬なんてしたこともないのに、どうして姫野にはこんなにも激しい感情を抱いてしまうんだろう。……白々しいかな。  答えは初めから自分の中にあって、私は目を背けているだけなんだ。  ばっちりメイクが完成した一軍女子が自撮りタイムに入ると、さすがの私も居た堪れない。  重い腰をあげて練習教室に向かうと、中から興奮気味の笑い声が聞こえてきた。なんとなく嫌な予感をさせて覗くと、姫野と西部が楽しそうに話している。 「本当にいいんすか⁉」 「ええ、いくらでもあるし。一つをみんなで使うなんて、失くした時に大変でしょ」 「ヒメちゃん先輩マジ神~!」  はしゃぐ西部の手には、松ヤニが握られていた。ああそうか、物で釣ったわけね。そういうマネもできるんだ。  その時、西部が私に気が付いた。そして彼女は案の定、私が楽しそうでないことにも気が付いた。私は至って平気そうに笑いかける。 「それ、貰ったんだ。ラッキーじゃん」 「いや、みんなで使おうかなって……」 「何で? あんたが貰ったんだから、あんたのもんだよ。ねえ、姫野さん」 「大切にするなら、誰がどう使おうが気にしないわ」 「だって、ほら。あんたが使いな」  西部が気まずそうに松ヤニをチェロケースに仕舞った。私はチラッと姫野の方を見ると、そこには真っ白で艶やかなチェロケースが鎮座していた。ハードケース、それだけで十万円はする。  中のチェロは何百万のものなのだろう、学校にそんな高価なものは持ってこないだろうか。いくらでもある予備の中の一つだろうか。  私たちは自分の楽器を買う余裕などないので、学校が貸し出している楽器を弾いている。ケースも布製の安物だ。雨でもへっちゃらなハードケースは喉から手が出るほど欲しいものだった。  貴方様のお古で良いので、安く売ってくださいませんか。そんな風に媚びてみようか。なんでも手に入るお姫様。あんたの腕なんか、折れちゃえばいいのに。  ……今、何を考えた?  自分のおぞましい願いに、鳥肌が立った。私は、いつからこんなにも醜くなったのか。ついこの間まで、毎日が楽しかった。来る日も来る日も文化祭の舞台でソロを弾く自分を思い描いて、そこに向かってひたむきに練習を重ねてきた。  私のせいじゃない。私をこんなに変えてしまったのは、あいつだ。あいつさえ現れなければ、私は綺麗なままでいられたのに。ニキビを爪で潰したみたいにグジュグジュになった感情は、醜く膨れ上がっていった。  いまだに機嫌を伺っていた西部をよそに、私はチェロを担ぎ直す。 「先輩、どこ行くの」 「今日は一人で集中したいから」 「そ、そっか。了解っす」  個人練とは言っても、大体は同じパートや仲良し同士で集まって練習をする。西部はいつも私と同じ部屋を使っていた。しょっちゅう分からないところを聞いてくるので、結局二人きりのパート練になるのだ。  でも、もう私なんか必要ないでしょ。正解を教えてくれるプロがいるんだから。  何が「あの日がキラキラとして見えたら」だ。私の光り輝く毎日をドロドロにしたのはお前のくせに。  あの美しい顔も、音色も、全部消えてなくなってしまえばいいんだ。      
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