2人が本棚に入れています
本棚に追加
何も言わない彼女の代わりに、私が先に口を開く。
「……それ、私のチェロ」
「ああ、そうだったの。先生が好きなのを借りていいと仰ったから」
少しばかりの敵意を滲ませてみたものの、彼女は平然と言ってのけた。謝るだとか名乗るだとか、そんな当たり前の態度を求めた私が間違っていた。
彼女はなおもこちらを見つめるだけである。まるで「まだ何か?」とでも言うように。
「あら佐藤さん、ちょうどよかった」
振り返ると、そこには背の低い丸眼鏡の女性が立っていた。現代文の教師で、弦楽部の顧問でもある金谷先生だ。
カナヤンは大層嬉しそうに私と彼女を交互に見る。
「もう友達になったのかしら? 姫野さんは明日から三組に転入するの。佐藤さんならご存じよね、姫野 健さん。あの世界的チェリストの娘さんなのよ」
「そうなんですね。どうも、佐藤です」
カナヤンの登場と私からの挨拶で、姫野はやっと立ち上がった。そうしてお人形さんのような静かな笑みを浮かべて、優雅に会釈をしてみせる。
「姫野 葵です。どうぞよろしく」
「あら、葵って。たしか佐藤さん……」
いつもは合奏練習の時間をすっぽかし、職員室でコーヒーを啜っていたりするくせに。忘れていてほしい時には覚えているんだな。
「……私も葵っていうの。佐藤葵、よろしくね」
「わあ、偶然ね。同じ葵で、同じチェロ。私たちって仲良くなれそう」
私の中の何かが、バラバラと崩れ落ちる音がする。
その言葉で、彼女が弦楽部に入部する気でいることが分かってしまった。弱小部に突如現れた大戦力に、カナヤンは高揚を隠しきれていない。それと反比例して、私はこれまで築き上げてきたものの終わりを確信していた。
目の前で無害そうに微笑むこの少女が、私の青春を粉々にするんだ。
最初のコメントを投稿しよう!