月曜日

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「ツアーばかりで全然友達が出来なくても、貴方がいるって思えた。辛い練習だって乗り越えた。何度もお願いしてやっと日本に帰ってきたのに、こんな仕打ちって酷い!」  ぐしゃぐしゃに泣く姫野は、とても可愛いとは言えなかった。そうだ、彼女もまた一人の少女なんだ。たった一枚の手紙を拠り所にするような、私と同じ高校二年生なんだ。  どうして今まで気がつかなかったんだろう。  友達になりたいと言っておきながら、いつしか姫野を神のように崇拝していた自分に気づく。  姫野が参加したツアーの演奏は全部聞いた。父親のブログに娘のことが書かれていないか毎日チェックした。そうやって追いかけ続けた対象がいざ目の前に現れると、あまりの差に落ち込んで不釣り合いだと逃げ出した。 「ごめん。あんたが私のこと覚えてるわけない、友達なんてなれっこないって決めつけてたんだ」 「……じゃあ、友達になってくれる?」  心臓を握りつぶされるような感覚がした。ここで「そうね、これで仲直り」と手を取り合えば丸く収まるのだろう。  でも、私が彼女を憎んだことも紛れもない事実なんだ。それを無かったことにはできなかった。 「……自分の居場所が取られるくらいなら、あんたの腕が折れちゃえばいいって思った」 「……」 「でもやっぱり、私はあんたの音が好き。あんたがどんな景色を見て何を思うのか、それをどう音に乗せるのか。その全てを隣で感じたい」 「それは友達とは言わないの」 「分かんない。でも、もう逃げない。好きでも嫌いでも、あんたと一緒にいたいから」 「……そっか」  姫野は静かに笑った。お人形さんのような微笑みではない、クシャッとした笑顔だった。 「ねえ、チェロ弾いてよ」 「え…… リクエストは?」 「エチュード。初めてここで会った時の」  姫野は言われるがまま演奏を始めた。あの時はこの世の終わりのように響いた音色が、今は温かく染み渡る。  悩んでいたことが綺麗さっぱりなくなった、とは言わない。でも、ニキビの一つすら憎んでいた自分が滑稽に思えるくらいには、心が軽くなっていた。    誰がどのパートを弾いてどの席に座るかだとか、結局のところどうでもいいんだ。音は混ざり、重なり、一つになるものだから。  大事なものは、日常の中に溶けていたんだ。  口ずさんだ音色に他の誰かの声が重なり、気づけば声の四重奏になっている、桜が散る帰り道。  練習の息抜きに頭からケースを被って「チェロザウルス〜」なんて遊んでいると、運悪く顧問が通りかかってお叱りをうける、梅雨の教室。  故郷の空を思い浮かべてなんて抽象的なお題を受けて、あの子はどんな空を眺めているのだろうかと思いを馳せる、夕暮れの鱗雲。  お世話になった先輩たちともうすぐお別れなんだと、心に刻むようにトゥッティで息をする、冬の音楽室。  青春とは何か、そんな定義づけは馬鹿げている。  この日々全てが青春で、私は、私たちは今この瞬間、青春の中を生きているんだ。  エチュードは尚も響き渡る。  図書室からの帰り道、耳を疑ったっけ。私が追いかけ続けた音に、あんまりにも似ていたから。  落ち込んだ日も、気分を上げたい日も、必ず彼女の音と一緒だった。毎日聞いてきたはずのそれが、何故だか今日は違って聞こえる。洗練された音に混じる少しばかりの粗っぽさ。  そうか、彼女の音も生きているんだ。  この生きた音を、私はあと何回聞けるのだろう。  二人だけの演奏会が永遠に終わらなければいいのに……   「そっか、今日なんだ」 「何が?」  姫野が演奏の手を止めて問う。私は目を輝かせて答えた。 「私が大人になった時、戻りたいと思うのは、きっと今日」 「……うん、そうね」 「ねえ姫野、トゥッティで言おう」 「え、何それ」 「せーので今思っていることを言うの」 「別にいいけど」  私が息を吸う、姫野も息を吸う–––– 「ありがとう」 「せえのっ……て、あ、そういうこと?」  全然息の合わないトゥッティに、私は笑い転げた。その笑い声につられて姫野も噴き出した。   九月の暑かった日差しは和らいで、窓の隙間を通り抜けた風はほんの少し涼しかった。  二人の少女の笑い声が響く教室で、夏が終わろうとしていた。     (了)  
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