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カナヤンは月曜の合奏の時間にしか顔を出さない。それ以外では基本的にコンマスである悠人が合奏を取り仕切り、指示を出す。
みんなが悠人に注目し、彼の息遣いや動きに心を揃える。
「リタルダンド、急がないで。四小節かけて、ゆっくり速度を落としていってほしいかな。ヴィオラは一年生も随分と安定してきたね。その調子で。それじゃあ、トゥッティから」
「はい!」
それじゃあ、トゥッティから––––
トゥッティとは、総奏という意味だ。ソロ終わりなど、また全員で音を奏でる場面で使われる音楽記号。
私は悠人のこのセリフが好きだ。トゥッティに入る前、みんなが悠人を見る。そして彼の呼吸に合わせて、みんなで息を吸う。その瞬間が堪らなく尊いと感じる。
指揮者に一番近い席で、悠人と向かい合って座り、彼と視線を交わしながら音楽を奏でる。この空間は他の誰にも邪魔されたくない。私たちだけの特別な場所なんだ。
悠人が息を吸う、みんなも息を吸う––––
ヴァイオリンのトレモロが不気味な雰囲気を醸し出す。主旋律はヴィオラだが、ここの主役はチェロと言ってもいい。
先ほど教えたはずの「気持ち大きめ」という指示も虚しく、チェロの音色は蚊の鳴くほどにしか聞こえない。静かな場面で音を鳴らすというのは想像以上に難しい。音程に自信のない一年生なら尚更だろう。
後でもう一度指導しよう、と思ったその時––––
「今の部分、チェロはもっと主張しなきゃ」
頭から氷水を浴びせられたような感覚がした。振り向くと、扉の前に腕組みをした姫野葵が立っている。みんなが困惑の表情を浮かべる中、横から顔を出したカナヤンが不思議そうに私を見た。
「あら佐藤さん、みなさんに伝えてないの?」
「入部が確定かどうか、わからなかったので。期待をさせてもいけないかなと」
「そうなの、じゃあ改めて。本日から入部の姫野さんです。お父様は世界的チェリストの姫野健さんなんですよ」
「初めまして、姫野葵です。どうぞよろしく」
そこかしこから「めっちゃ綺麗」だとか「姫野健って知ってる?」といった囁き声が聞こえてくる。カナヤンは紹介を済ませると「頑張ってね」と職員室へ帰ってしまった。
仕方なく私が立ち上がり、彼女の元へと向かう。
「悪いけど、学校楽器に空きはないの。ちょうど修理に出していて。今日は見学していてくれる?」
「ええ。明日からは家のチェロを持ってくるわ」
「あ、あの。塾で早退しなきゃいけないので、代わりに私の弾きますか?」
一年の綾香がおずおずと差し出したチェロを、姫野は笑顔で受け取った。綾香はアイドルにファンサービスをしてもらったかのように顔を赤らめる。
空いた一番後ろの席に着くと、姫野は軽く弾き心地を確認してからパッと悠人を見た。
「中断させてごめんなさい。それじゃあ、トゥッティからでいいのかな、コンマスさん」
「え、ああ、うん」
私は胸がカッと熱くなるのを堪えた。上手いからといって、それがどこでも通用するとは限らない。ここは個人戦ではなく、合奏という団体戦の場なのだ。
今日まで私たちが作り上げてきた音楽に、彼女のでしゃばる隙などないんだ––––
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