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1,しだれ桜
杉坂森次(しんじ)は金曜の夜、住まいの引き戸を開けて外に出た。
そこは山の中で、満月に近い天上の月の光が風景の表面を撫でる音が聞こえそうな静かな夜だった。森次の視線は、まっすぐに目の前にそびえる1本の木に注がれた。
それは見上げるほどのしだれ桜の巨木で、3月半ばの今、風景からあふれ出すほどに花が咲き誇っていた。
枝が垂れるのはしだれ桜の特性だが、薄ピンク色にぎっしり咲いた花の重みで枝がしなっているように見えた。
森次は時も現実も忘れて桜に見入った。
人が訪れることが稀なこの山の中で、羽を広げた孔雀のような姿で咲く桜を、彼はほとんど独占していた。
世の中の桜は多くの人々の共有する風物だが、このしだれ桜は彼一人の物と言っていいほど特別だった。
森次はこの1本桜の桜守だった。
あふれ出る桜への愛を源に、全身全霊で桜を守る。
樹齢を軽く百年超すこの木の、受け継がれていく生命の流れに自身の生命を重ねて、守る。
桜の木に愛情を注ぎ過ぎて、生身の女性に興味が持てないほどだった。
彼は誰かに雇われたわけではなく、山の中の廃寺に咲くこの木に偶然出会って衝撃を受け、放っておけないという使命感と自分のものにしたいという欲望が合わさり、自ら桜守となった。
滅多に人が来ることのない地とはいえ、桜の木はデリケートなので不心得者が勝手に枝を切ったりしないよう、森次はこの木のそばに住んで監視しようと思った。
廃寺の本堂は見る影もなく荒れ果てていたが、その隣にある庫裏(くり)は修復可能な状態で残っていて、森次はそこを貯金をはたいて改修し、宿坊にした。
桜守としての収入はないので平日は植木職人として働き、土日は終日宿坊にいて桜との親密な生活を満喫した。
そのうち宿坊に客を泊めることを思いつき、土日限定で数人ずつ宿泊するようにした。料金は無料で、カフェコーナーをこしらえてコーヒー代だけ徴収した。
ただし、客の自発的な心付けは遠慮なく受け取った。
8畳ほどの和室と台所のみなので、基本寝袋持参で雑魚寝だった。食料も持参、時間は土曜の午後4時から日曜の朝9時までとなっていた。
そして桜を愛する者というのが第一条件で、泊まりに来た客に少しでも不審な様子があれば、森次は即座に追い返した。
しだれ桜の崇拝者の筆頭は自分をおいてほかにいないという信念をもちつつ、森次はそれが孤独に由来するものか、桜への想いを分かち合いたいと思うようになった。
それには、しだれ桜宿坊の主人として客をもてなし、桜への愛を語り合うという形が最善だと考えた。
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