0人が本棚に入れています
本棚に追加
土鍋の中が空っぽになり充実した食べ物と会話で満たされた頃、壁にかかった時計を見ると時刻は8時になろうとしていた。
「そろそろ行きましょうか」
と森次が客に声をかけると、4人は一斉に立ち上がってコートやジャケットを羽織った。
戸外は、満月が演出する幻想的な世界だった。
満月の下での夜桜観賞、これが今回の最大に楽しみだった。
永青でさえ、満月の時ここで夜桜を見るのは初めてだと言った。美世は満月の夜に泊ったことはあるが、桜の時期ではなかった。
桜を愛する一同の心は共感でつながり、その目はしだれ桜に釘付けになった。
「うわあ、きれい!」
礼奈が感嘆の声を上げたが、他の4名はこの美しさにはどんな言葉も空しいというように無言で桜を見つめた。
しばらく観賞した後、礼奈がカメラを手にして森次に桜の木の前に立ってほしいと頼んだ。
「孤高のしだれ桜と、それを愛する桜守。最高の構図ですね! 何か時代を超えて江戸時代に来たみたい」
森次は愛用の紺の半纏を着ていたが、それが江戸時代を想起させたものらしい。
「墓地を見下ろしているのが、また桜の幽玄さを表現しているというか……。私は怖くてとても一人では来られませんけど。永青さんなんて、平気なんですか」
「うん。俺の怪奇趣味をそそるね」
「桜の樹の下には屍体が埋まっている!ね」
横から美世が、氷のような声音で言った。
「何ですか、それ。怖ろしいですね」
「知らないの?梶井基次郎の短編の題名よ」
永青、美世、森次の3人は知っていたが、礼奈と豊田は知らなかった。そのこともまた、両者の間を区別する境界線のひとつだった。
礼奈は恐怖に起因する震えを感じ、寒気も手伝って、建物内に戻りたがった。
そして一行は夜桜観賞を終えたが、最後まで桜の木のそばを離れなかった森次を、永青がふと振り返って見た。
その時永青は、誰も気付かなかった森次の恐怖に近い不安の表情を目撃した。
最初のコメントを投稿しよう!