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絶対零度の荒涼
絶対零度の荒涼が、全天に君臨している。見上げても、見下ろしても、見渡しても、闇、闇、闇。
そこに息づく生命はなく、勢いづくのは死神の破竹。
吹きすさぶ風と荒れ狂う霙に紛れて殺人ユキヒョウの群れが間合いを詰めてくる。
女はキュッと地面を踏みしめる。吐息が凍って目印にならぬよう呼吸を整える。唾を飲み下してバスタードソードを構えた。「──来い!」
その声に呼応するように、黒い影が幾つも降り立つ。ユキヒョウだ。女を取り囲むように陣形を組み上げる。
女は動じない。ただ一心に獲物を見据えるのみ。
やがて──ユキヒョウたちが一斉に駆け出した。
猛然と迫る黒豹たちに女は一歩たりとも退かない。
迎え撃つ構えで剣を構え、そして──ふっと笑った。
それはまるで、勝ち誇るような微笑みだった。
次の瞬間、女の姿が消えた。
ユキヒョウたちは一瞬にして視界から消え失せた女の姿を必死になって捜すが、見つけられない。それどころか──
「……ぎゃああああっ!?」
突然、一匹のユキヒョウが悲鳴を上げた。
見ればその首筋には深々と剣が突き刺さっている。いつの間にか背後に現れた女の手に握られたものだ。
女はそのまま手近なユキヒョウに飛びかかる。
「……っ!!」
声にならない叫びを上げながら女は渾身の力で刃を突き立てる。だがその一撃では致命傷を与えることはできなかったようで、ユキヒョウは激しく身をよじるとそのまま跳躍した。
女は振り回されるようにして地面に叩きつけられる。すかさず別の個体がその隙を狙って飛びかかった。
女は素早く立ち上がりざまに薙ぐような斬撃を放つ。
しかし相手はそれを軽やかにかわすと鋭い爪を振りかざした。
女は咄嵯に身を屈めて回避する。ユキヒョウの攻撃はその頭上を通過していった。
反撃の機会を窺いながら、女は内心舌打ちをする。
この雪原において、敵は圧倒的にこちらより優位にあるようだ。
寒さに耐えうる毛皮、俊敏な動き、何よりもその圧倒的な戦闘力。
恐らくこのユキヒョウたちは、あの〈魔獣使い〉のペットとして飼われていたものだろう。
そう考えると合点がいく。あれだけいたはずの他のモンスターが一匹もいない理由にも説明がつくからだ。
つまり──彼らは主を守るべく、自らを犠牲にしてでも侵入者を排除しようとしているのだ。
それでも彼女はあきらめず、ひるまず、退かず、立ち向かい続けた。
何度倒れても起き上がるたびに強くなっていった。それはやがて彼女の力だけでは太刀打ちできぬまでになり、ついには死してなおその魂が冥府へ辿り着くことを拒むようになった。もはや生者も亡者もない闇の世界を彷徨い歩き、行く手に待ちうける暗黒の軍勢と戦い続ける運命を背負わされたのだ。
それが、彼女が背負った咎だった。
「……お前にはわかるまい」
呟きながら、俺は眼前の光景を見つめていた。
アルヴという名に刻まれし運命と宿命
俺の傍らに立つ、アルヴの女戦士の姿と共に。
彼女は言葉もなく、ただじっと佇んでいる。
ここは、かつて俺たちがいた世界ではない。
ここは、あの世界のどこかに存在する場所なのだ。
そう。
ここは――。
俺たちは今、この世ならぬ場所にいる。
そして再び、戦っているのだ。
この世界で戦い続けている連中と同じ姿となり果てて。
「わかるはずがない……」
もう一度、声に出していた。
誰に向かっての言葉なのか、自分でもよくわからなかったからだ。
もちろん、目の前にいる女にもだ。
だが、そのとき不意にひとつの情景が脳裏に浮かび上がった。
遥かな高みから見下ろすように、ゆっくりと回転しながら降りてくるものがある。
金色の光を放つ巨大な球体。
あれはかつて見たことがあるものだ。
そう、確かアレは……。
記憶の底から浮かび上がってきたその名を口にしかけたとき、突然背後から強い衝撃を受けた。
たまらず膝をつく。
全身が痺れていた。呼吸ができない。胸元を押さえると、掌にぬるりとしたものを感じた。見るとそこには深々と矢が突き立っている。
振り返ろうとしても力が入らない。そのままうつ伏せになって倒れた。
意識が急速に遠のいていく。
霞む視界の中に、金色の光が見えたような気がした。
あのときと同じように、空の彼方に浮かぶその球はゆっくりと回り続け、地上からは見えないはずの俺の姿を照らし出している。
そこでようやく思い出すことができた。
アレが何であったのかを。
そして同時に悟ることができた。
なぜこの場所に来たのか、という理由を。
奴らは……あの球は……。
神族どもは……。…………。
もう何も見えなかった。
ただひとつだけ、確かなことがあった。
俺は負けたのだ。
おそらくはこの世界に生きるすべての存在の中で、最も強大な力を持つであろう存在との戦いに敗れたのだ。
それはとても悔しく、口惜しかったが、不思議とその感情は心の奥底へと沈んでいき、すぐに消え失せてしまった。
代わりに湧き起こったのは安堵感であり安らぎでもあった。
これでいいんだという思いだけが胸に満ち溢れてきた。
さっきまで感じていた痛みや苦しみも嘘のように薄れていき、このまま眠れたらどんなに幸せだろうかと思ったほどだ。
しかし、それさえも叶わないらしい。
まだ俺には為すべきことがあるようだった。
無念ではあったが、魔龍を探して連絡を絶った、恩師の骨は拾わねばならない。黒エルフの美人魔術師と称えられ時には疾風の凶報と恐れられた師匠。「ちょっくら、魔龍に挨拶してくるわ」とまるで散歩にでも出かけるような笑顔を残して、それっきりだ。彼女は俺が物心ついた時から家庭教師をしていた。俺にとっては育ての母のような人だった。
それに何より、あの連中を放っておくわけにはいかないだろう? 放っておけばまたぞろ余計なことをしでかすに違いない。
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