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ベタ・スプレンデンス・ハーフムーン
音の外れた鶯が夏の始まりまで泣いていた。そんな夕暮れに、私は彼を弔った。
爪染じゃあ古臭くてネイルじゃあ真新しすぎて、私にとってはマニキュアくらいがちょうど良かったんだ。気付けば手の甲を二箇所藪蚊に喰われていた。酷く痒くて私はつねって熱くした。
「頭は優しく指で洗って。爪なんて硬いものは立てたりしないで」
なんて、そんなことを彼は言った。莫迦ね、そんなんじゃあ私はもう満足できないのに。熱くなったり冷やくなったりする、そんな不安定なシャワーが好きだったんだ。だからいつまで経ってもあの部屋から引っ越せずにいた。例えば耳の裏に出来た小さなしこりが痛くて、だから心底潰したくて、でもそんなことできないようなことってあるじゃないか。だからほら、そう、その耳の裏の小さなしこりがいつの間にか可愛く思えてしまうようなことだってあると思うんだ。私は彼にそのような思慕を向けていたのだと思うのだ。
ねえ、ボク。生まれてくる時代が君と異なってしまったのなら自分の罪障を呪いなさいとあなたの神様に教わらなかったのかい。
何も敷いていない硬い床に寝転がって目を閉じるとすぐにまた夢を見た。彼との夢だ。夏売りが歌っている。私は逃げ出したくなる。夏売りは構わず歌い出す。
女もいるよ、男もいるよ、もちろんどちらでもないものも。鬼も、獣も、双子の忌み子も。
「逃げよう」と私は彼に言った。
「逃げられないよ」と彼は私の手を取った。
白い胸びれが踊る。
「だって君には立派な尾ひれが無いからね」
うなる、うねる、水流、巻き込まれてゆく。私は夢から目覚められない。
「僕らの暦の話をしようか」
「嫌よ、嫌」
今だけはあなたの話を聞きたくない。
「遠い昔、全ては海から来たんだよ。僕も、君も、あちらこちらの化物だって」
提灯、ラムネ、荒削りの氷、射的の店主がぽくりと吐き出す湿気て古びたホープの香り。
「君達は驕っている、陸に足をつけ自重を支えていることがえらく偉いことだと信じ込んでる。でも本当は僕らが羨ましいんだ、違うかい」
彼はひらりと宙返りした。空だと思っていたものは光の差し込むみなもだった。こぽり、こぽり、私の足は檻の隙間で宙ぶらりんに震えた。
「ひれに肉を付け立派だった尾ひれを二つに割ってまで君達が得たものって何だろう。考えてもみてよ、君達はもう全部、全てすり潰さないと生きてはゆけない命だというのに」
やめて、やめてと私は悲鳴を上げる。
「全て同じなのに、僕も君も。言っただろう、全ては塩の坩堝から生まれたんだって」
なのに君は忘れてしまってる。どうして忘れてしまったの。
私は夢の中で泣き出す。誰か、誰か、肩を揺さぶって起こしてくれ。私は今しか見たくない、あなたと居る今しか要らないのに。
子供のように泣き喚いてうずくまった私を夏売りが本当に子供だと勘違いしてとうとう私は囚われた。仔猫のように首根っこを掴まれて硬い檻へと放り込まれた。何かを轢いた血染めのリヤカーがゆっくりずるりと動き出す。彼は捕まった私と並んで尾ひれをくねらせ泳ぎ出す。
「ねえ、もう何処にも行けないの」
大丈夫。
「迎えに来るよ、いつか必ず」
「いつかっていつ」
ねえ、ねえ。
「いつかはいつか。僕の中の、いつか」
夏売りが歌う。私は揺られ彼から遠ざかってゆく、どんどん見えなくなってゆく。彼の綺麗な紅玉が私を綺麗に見失う。
「さようならなの、ハーフムーン」
またも夏売りが歌い出す。
さあさ、寄ってらっしゃい、観てらっしゃい。見世物小屋の開幕だ。お気に入りが見つかったのなら持って帰って頂戴よ、ほら。女もいるよ、男もいるよ、もちろんどちらでもないものも。鬼も、獣も、双子の忌み子も。水の夢路に捕まった、哀れで可愛い黒髪も。
そして目覚めた。いの一番に目に入ったのは光の差し込む水面ではなくてありきたりな白い天井、頬には痒みとゴザの痕。目元には乾いた潮溜まり。起き上がるとじっとりと汗をかいていて、西日が彼のグラスに反射していたから私は急いでカーテンを閉めた。夢の中で彼が言っていたことを思い出した。
『全て同じなのに、僕も君も』
女は胎に海を飼っている。そこに映し出される月も、星も。だからそこに眠る赤ん坊も指の間に膜がはっているのだ、血の海を自由に泳げるようにと。なのにそれも自然となくなってしまう。それが陸に足をつけるということ?不自由になるということ?それが私達の得た自由であり、私達だけの暦だということ?
大人になるにつれて色んなものを開示しなくてはならなくなる。部屋の保証人だとか、持って生まれた欠陥だとか。自分を含めた人間達はそういうものを全て割り切って息をしていると信じ込んでいる輩がいるのだ。少なからず、この世界には。
「あなたはいいわね」
皮肉なんかじゃなくて、本当にいいわねと思うのだ。小さなアパート、小さな部屋に遮断され、その水槽に遮断され、幾重にも幾重にもなにものからも遮断されたその世界は私にとっては喉から手が出るほど欲しいものなのだ。
私はあなたが居ないと右にも左にもいけないだとか、そんなふうになるのがただ怖かった。そんなふうにだけはなりたくなかった。私はあなたに幸せにしてもらおうだとかそんなこと一度も思ったことはないのよ。ただあなたがこの部屋に居ることで日々の暮らしがほんの少しだけ膨らみを帯びたことは私だって自覚していたの。
少し歪んだ指が恥ずかしかったから私はそちらの手ではあなたの水面に食事を落とさなかった。そのおかげで私の左手が映るたびあなたは魚のように境界ぎりぎりを泳ぐようになった。私はあなたを仕込んだみたいでその度に嫌な思いをした。そのことだけを私は今でも憶えている。
「今度、飛び切りの音だけ持って海にいくんだ」
また夢の中で彼が言った。
あぶくが湧いては消えてゆく。恋人がドライヤーに吸い込まれて死んだ、古くからの友人達が櫛の髪の毛に絡まって私のことを嘲笑う。指を差して「幸せか」等と曰う。在りし日の父がエアコンの中に姿を消した。あれからクーラーをつけるたび父の吐息で私は涼む。母だけは変わらずに居た。「だって水掻きが生えてたあなたもあたしはお腹に入れていたのよ」と、そう言っていつもの様相で笑った。そして彼らは薄ぼんやりと水に溶けていった。これが私の暦かと感じた。
私も変温動物になると、そう彼に駄々をこねた。あなたと同じになると。
「そしてそのひれで私の頬をはつって」
私がそうされたかったの、口を出さないでくれ、お願いだ。
「じゃあいいかい」
ええ、もちろん。激しく撫でられる右頬、広がる血の味。美味しい。まるで夢の国の炭酸ソーダ。
「知ってるかい」
何が、と私は口の端から赤を滴らせ答える。
「白化個体の瞳の色はヘモグロビンが透けているだけなんだ。だから決して僕の眼はルビーなんかじゃないんだよ」
勘違いしないで。
「だからさ、別に特別なことなんかじゃないんだ。君らは宝石を掘り当てたみたいな顔して僕達を眺めるけれど君と僕も同じなんだよ。なんなら僕を特別扱いする君のほうがよっぽど特別に思えるよ」
あら、そうなの。だったら特別だって分かるように私のひれに番号札を付けてよ。私は言う。何番だっていいわ、決して外れなければなんだって。
彼は笑った、賑やかに水面がさざめいた。
「それより君にはドレスが似合うと思うよ。僕と合わせて青いドレスがいいと思うな」
嫌よ、ドレスなんか着たくない。だってそしたら迎えが来てしまうんじゃないの。
「時計なんて止めて仕舞えばいいのさ。秒針なんかライターで炙ってさ、ずっと踊っていたらいいんだよ」
朝まで。
「今僕らに必要なのは波の音じゃなくて体を温めてくれる白湯だろう。お飲みよ、気をつけてね」
火傷しないように。
「だって僕らは変温動物なんだから」
次に目が覚めると雨が降っていた。部屋の中まで雨の匂いがした。いちょうの雨が降り積もっていた。石垣の隙間まで埋めているから、それはそれは金継ぎのようで美しかった。床に横たわったまま、昔のことを思い出した。あのね。
『プール、辞めたいの』
どうして、と母が言った。あとね。
『英語ももう辞めたいの』
どうして、とまた母が言った。どうしてあなたは。どうしていつもあなたは。あなたはいつもそうね。そう母はそっぽを向いた。その母の厳しい口調と首の捩れを思い浮かべて、私は結局何も言えなかった。今まで。
せっかく六年生になったんだから。
せっかく勉強してきたんだから。
せっかくあなたに夢を託しているのだから。
たくさんの、膨大な数のせっかくに囲まれて私は身動きが取れなくなった。
せっかく友達になったんだから。
せっかく恋人になれたんだから。
せっかくキスまで済んだんだから。
せっかくここまで生きてきたんだから。
これら全てのせっかくは私だけのものであって、あなた達の、あるいは大人達の、あるいは友達、先生、恋人達のものではなかったのに。私だけのせっかくなのに、どうしていつもいつも知らぬ間に奪われてしまっているんだろう。
「もう取り上げないで」
私は何度も夢の中で泣いた。ぬいぐるみもヒーターもかき氷機も、ちゃんと全部私が片付けるから。約束するから。お願いします、お願いします、と丸まって私は泣いた。
あなた方の言っていることは至極真っ当だよ、凄く分かる、私もそんなふうに沿っている。けれどそれと全く同じかというとそうではなくて、私は水炊きに舞茸を入れたいんだ。あなた方はお汁が黒くなるからやめなさいなんて言うだろうけれど私はえのきやしめじじゃもう我慢ならないの。
「許してくれる?許してくれる?」
写真なんて撮らないで。あなたとは全然仲良くないわ。私は私よ。私だけなの。ベランダで電話はしないで。できればタバコも吸わないで。お腹が空いてしまうからこれ以上希望を持たせないで。この四角い部屋で全てが行われるように私達だけで完結していよう。
水から出したあなたはしっとりと濡れていて所々溶けていた。私の頬をはつったヒレは融解していて水面にぴしゃんと雫が落ちた。あなたの瞳は赤かった。けれどスパンコールではなかった。あなたの言った通りルビーでもなかった。良かった、やっぱり血が透けていただけだったんだ。
「私もあなたも同じ色のものが通っていたのね」
そしてその夕暮れ、私はあなたを弔った。
あなたを笹舟に乗せて遠くまでゆくように川へと流した。そうしないといけなかった、だって私達はいつまでも繋がっているんだから。あなたのひれを取りたかった。その白い手を。でもさすれば最期、私もこの濁流に呑まれてしまう。
「それでも良いのよ、本当は」
本当は一緒にいきたかった。けれど。
「そうしたら、誰があなたを弔うと言うの」
私は泣いた。川の涙だ、あなたの涙だ、あなたの涙は赤い血の涙、私と同じ、透き通った血の涙でしょう。
「はじめまして」
私の名前は。
「ありがとう」
一緒に居てくれて。
「こんにちは」
また会いましょう。
「さようなら」
手を振って、とこしえにお別れ。大好きよ、これからもずっと。これからもずっと、私はあなたの夢を見続けるのでしょう。
「その苦しさを、」
愉悦を、飢えを、渇きを、この慶弔を、
「私は決して、忘れはしないわ」
ねえ、そうでしょう。
あなたのテキトウが私の全てで、私の努力はあなたにとってはどうかしていた。ウィークエンド、ウィークエンド。水曜日が来るたびにあなたを思い出してしまうだろう。
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