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十五話 喧嘩
それは、穏やかな午後のことだった。
がっしゃーん!!
ガラスが割れる音。そしてどたばたと争う音と声が談話室から聞こえてきた。今日は宿泊客が沢山居る日だ、まさかお客様同士で喧嘩でも始まったのかと、私は慌てて談話室に飛び込む。
喧嘩していたのは淳蔵様と美代様だった。
「ふっざけんなテメェッ!!」
「ふざけてるのはテメェだろッ!!」
普段の、余裕を漂わせている淳蔵様と、穏やかな美代様からは想像もできない程、荒れている。割れた音の正体は談話室のテレビらしかった。宿泊客の何人かが野次馬をしている。騒ぎを聞きつけた直治様がやってくると、ギョッとした様子で私に話しかけた。
「なんだ?」
「わ、わかりません。掴み合いの喧嘩をしてるから止めないと!」
「止めるな止めるな! おいっ! 誰も止めるなよ! 怪我するぞ!」
直治様はどこかに駆け出して行った。それと入れ替わりに、都様を呼びに行っていたのであろう美雪ちゃんと、都様が慌てて階段を駆け下りてきた。
「二人共! なにやってるの! やめなさい!」
『都には関係ないぃ・・・!』
掴み合いの喧嘩をしている二人は都様の方を見てそう言う。
「ひぇ・・・!」
「都、引っ込んでろ!」
直治様が都様の背中を乱暴に掴んで後ろに移動させると、バケツに汲んでいた水を二人にぶっかけた。火が消えたように二人が静止する。
「淳蔵の手当ては俺がする。絵葉は美代の手当てを。できるか?」
「は、はい!」
「都はお客様の対応を。美雪は掃除してくれ。破片に気をつけろよ」
「はい・・・」
「はい!」
「おいお前ら! お客様にご迷惑をおかけしたんだから言うことあるだろうが!」
直治様が珍しく声を荒げると、淳蔵様と美代様はお互いに睨み合ったあと、揃って頭を下げた。
『大変お騒がせしました・・・!』
直治様と淳蔵様は上階にあがっていった。上に治療できる場所なんてあったっけ、と思いながら、私はさっさと歩きだした美代様の後に慌てて着いて行く。医務室に入ると美代様は乱暴に椅子に座り、髪を搔き上げてふーっと息を吐いた。
「悪いね! 手間かけてさ」
「い、いえ!」
不自然に明るく笑っているので、思わず気圧されてしまう。
「自分でやるから美雪君の手伝いに回ってくれ」
「そ、そういうわけにはいきません。美代様のお顔ですもの」
「だから自分でやるって・・・」
美代様は舌打ちした。
「・・・まあいいや。じゃあ頼むよ」
私は震える手で、丁寧に丁寧にを心掛けて、顔の傷の手当てをする。
「あの、」
「うん?」
「どうして喧嘩してたんですか・・・?」
「・・・あれ、なんでだろ。忘れちゃった」
「えぇ??」
「些細な言い合いだったと思う。積もり積もって爆発しちゃった」
「御二人は、というか御三方は皆さん仲良しだと思ってました・・・」
「仲良し・・・」
美代様がうーんと唸る。
「そうだね、協力関係にあるとか、利害が一致してるとか、そういう次元の仲は超えてるから、ある意味仲は良いのかもしれないけど、誰にだって譲れないことってあるだろ?」
「はい」
「・・・まあ、君は『小鳥』だから話してもいいか。俺、悩んでることがあってさ。あ、顔終わった? 服脱ぐね」
どき、と私の胸が鳴った。美代様がシャツのボタンを外す。
「大学に行きたいんだよねぇ、でもそのためには仕事を辞めなくちゃいけなくて」
「仕事を辞める!?」
「一時的にだよ。もしそうなったとしても君達の仕事は無くならないから安心して」
「はい・・・」
「都は寂しがり屋だからね。一時的とはいえ客が居ない静かな状態にするのは避けたいんだよ」
美代様は日頃の疲れがこもったような溜息を吐いた。
「それをあのお節介野郎、俺のことなにも知らないくせに好き勝手言いやがって・・・」
「だ、駄目ですよ! 喧嘩腰になっちゃ!」
「・・・そうだね。失態続きだな、・・・はぁ」
「あのぉ、手当、終わりました」
「ありがとう」
角度を変えながら鏡を見た美代様は、苦笑した。
「酷い顔」
「すぐに治りますよ」
「ブスだな、美代」
初めて聞いた自虐に、どうしてか胸が締め付けられる。
「ほんとブスだなァ、美代!」
吃驚して振り返ると、傷の手当てをしてもらったのであろう淳蔵様が医務室の前に立っていた。
「うわ、俺も大分殴ったな」
美代様は、何故か楽しそうに笑った。
「笑ってる場合ですか」
ぴしゃん、と氷が割れたような音がして、冷たい都様の声がする。大変お怒りのご様子だ。二人が緊張して固まる。都様の後ろから直治様がひょこっと顔を出して、ああ、今から怒られるのね、といった表情をした。
「美雪さんはまだ片付けているんですが」
「す、すみません。手伝いに戻ります」
「いいえ結構です。彼女の心労を増やさないでください」
「はい・・・」
「二人共、言いたいことがあるのなら私の部屋に来るように。いいですね」
都様はさっさと去って行ってしまった。
「・・・お前なんてことしてくれたんだよ! 都を怒らせちまったじゃねえか!」
「お前のせいだろうが! あああ、どうするんだよぉ・・・!」
直治様が私を手招きする。
「美雪の手伝いに行ってやれ」
「はい」
「こいつらのことなら気にすんな。喧嘩するほど仲が良いとか言うだろ?」
「は・・・、はい!」
私はその日の夜、妙な夢を見た。
淳蔵様と美代様が手を繋ぎ、都様の前で『喧嘩してすいませんでした!』と言う。都様は必死に笑いを堪えてぷるぷる震え、『はい・・・』と返事するのが精一杯だったようだ。
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