act.6 拓海・伴走

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  「ゆーり姉が来れなかったんだよ、僕の歌を聞いて欲しかったのに」  夕食の時に真也がそう言ってとても残念そうだった。いつも自分の歌をとても褒めてくれる悠里に、今日の合唱コンクールの独唱(ソロ)は特に聴いて欲しい自信作だったのだろう。  大人達はもちろんその事情を知っている。出雲家の弟妹達をいつも可愛がってくれている悠里本人が、きっと一番残念だったに違いない事も。 「悠里ちゃんは今ちょっと具合が悪いんだって。病気が治ったら今度は目の前で歌ってあげようね」 「うん、そうするよお母ちゃん。ゆーり姉が早く良くなると良いね」 「そうね、みんなで待っていようね」  そうだな真也、それを俺達もみんな願っているんだよ。  また俺達が悠里の笑顔を見られるようになれば良い。  その日、出雲家にしては静かな夕食を終えて、俺は自分の部屋である屋根裏部屋に昇った。  俺は今日の土曜日、本当は出勤する日だったが、その全ての仕事を同僚や仲間に代わってもらっていた。  グリーンカウンティの初期メンバーや酒造に関わるメンバーはみんな北を知っている。  ファームでイベントがある毎に必ずやってきてくれて、何だって手伝ってくれた。酒米の田植えも稲刈りも北を抜きには語れない。  たとえ会社は違っていても、北はグリーンカウンティの仲間なのだ。  パソコンを開いて今日の業務報告を読む。特に変わりは無かったようで安心する。  あとは俺個人宛の社内メールだが、それがとんでもない数届いていた。真波酒造で火事があった事はもうみんな知っていて、俺が今日休んだことも影響しているのだろう。  北と家族を気遣うメールばかりだった。  俺はその一つ一つに返信する。北と個人的に付き合いのある南農高校のOB連中には少し詳しく、けれど余計な心配をかけない程度にだ。  北がそういうヤツだから、きっとこれでいい。 「拓海」  珍しく美音が階段を昇って来た、鷹が寝たんだな。今日は鷹もコンクール会場に行って、ステージに立つ真也を見て興奮していたと言うから疲れたのだろうか。  ふとその足元ににゃん太も来ていた。最近は階段を登るのも疲れるようで、この部屋には滅多に来ないのに。 「お前も悠里が心配なのか」  座っていた俺の膝ににゃん太が上ってきて箱を作る、そこでじっと眼を閉じたその背中を撫でる。 「悠里ちゃんはどうだった?」 「まだ安心は出来ない。けど処置が早かったから火傷の感染症や合併症の心配は少ないみたいだ。喉や気道をやられてるから今は声が出ないけど、北の事はちゃんと分かったって」  俺は会えてないけど北がそう言っていた。 「美音、あれを預かっててくれ。悠里があの家から持ち出せた唯一の大事な物だ」  サイドテーブルに置いた悠里の絵本を示す。たった三冊だけになってしまった悠里の大事な宝物だ。 「悠里ちゃん…」  美音がその三冊を手に取る。本当は二十数冊ある筈の母ちゃんの絵本、悠里はその全部を持っていた。  それが今やたったの三冊だ。 「母ちゃんの古い本は手に入りにくいらしいけど、もしうちに余分があるなら悠里にあげてくれ。出来る範囲でいいから」 「うん、私もそう思ってた。大丈夫、探すから」  美音の事だからきっと自分の本をあげてしまうかもしれないな、美音はそう言う人間だ。 「明日も北の所へ行くよ、悠里は面会謝絶だけど様子ぐらいは分かるかも知れない。あと北にメシを食わせてくる」  ちょうど休みで良かった、放っておいたらあの兄ちゃんは飲まず食わずになる。あいつの方が倒れてしまう。 「分かったわ、北くんをよろしくね拓海」  ああ、わかっている。  俺は俺の出来ることをする、今井夫婦は親父たちに任せて俺は北を護る。  悠里が無事に回復するまで、俺は北をフォローし続ける。  
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