act.7 龍矢・希望

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   悠里の食器を片付けている時、ナースステーションの前で看護師に声を掛けられた。  悠里の担当医師が俺に話があるという。ステーション脇の面談室に通される。  程なくやって来た担当医の赤津医師に、先日悠里が受診した精神科の特別外来の受診結果が来てるよと言われた。それを説明してくれるらしい。 「妹さんは特殊な退行性記憶障害ですからね、記憶の中に現在の存在を認識される人物とされない人物がいる。お兄さんは現在の姿も認識されていて、お母さんの認識は9才児の時のままです。妹さんは既に一度、5才児の頃に解離性健忘によって当時の記憶を失っています。そして今回、それが思い出された為に発症後に起きた出来事全てを忘れる持続性健忘に。しかも退行性の記憶障害という形で現れている複雑な症例です」  難しい症例であるのは俺も知っていた。一度記憶を無くした悠里がそれを取り戻した際に、今度は別の記憶障害が発症してる。  大人になった俺が認識出来てるのに、母親が亡くなっていることは認識出来ていない。 「それでね、精神科の医師が妹さんの治療には記憶想起法が有効ではないかと言ってきている。催眠と薬を用いた面接を行って記憶の空白を埋めていく治療法だ。時間は掛かると思うが検討してみてはどうかと思うんだ」  記憶想起法…初めて聞いた。それで悠里の記憶が戻る可能性があるのなら、受けさせてみたいとは思うけれど。 「勿論妹さんの火傷の治療が終わってからになるよ。今は広範囲に酷かった背中の皮膚移植が落ち着いたばかりだし、顔面の皮膚移植と左眼瞼の下垂を防ぐ手術もまだだ。記憶障害の治療は、そうだな…ここを退院してからになるね」 「あの、それはどの病院で受けられる治療なのでしょうか?」  確かあの精神科の医者もどこかの大学病院からの出向だったはず。少なくとも地元じゃ無かった。 「私としてはこの診断をされた長瀬医師にお願いをするのが一番良い選択と思う。長瀬医師は記憶想起法のエキスパートだ」  その先生には俺も診察の付き添いで会った。悠里に対してとても優しく接してくれるおじいちゃんといった雰囲気の先生で、悠里も大分リラックスして診察を受けていた。 「長瀬医師はいつもは宮城野渓(みやぎのきょう)医科大学付属の病院の方で診療をされておられます。うちの院長とは東北医大からの旧知の仲という事で、月に一度の精神科外来に出向していただいているのです」  それは俺もこの担当医から聞いている、非常勤の医師だがとても良い専門医がいるから受診させようと。 「ですからその治療の為には宮城野渓大の付属病院に転院する事が望ましいです。治療の成果にもよりますが、入院加療でじっくりゆっくりと治療を進めて行くのが良いと思います」  宮城野…仙台の奥だ。隣県だけどそんなに簡単に行けるところじゃ無い。  けど、悠里の為を思うならそれしか無いのだろうか。確かにこのまま怪我が治って退院しても、悠里には辛い現実だけが待っている。  今の悠里は歩行も出来ず、色々な事が何も出来ない幼い子供と同じなんだ。せめて記憶さえ戻れば…  けど悠里を一人にする訳には行かない。 「我々はよく考えて妹さんに一番良い選択をしましょう。自分も火傷の治療に全力を尽くします」 「よろしくお願いします」  俺は赤津先生に深々と頭を下げた。
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