エピローグⅠ 俊輔の死んだ日 ※仁科夢香視点

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エピローグⅠ 俊輔の死んだ日 ※仁科夢香視点

 大学卒業以来ずっと正社員として働いてきたから、アルバイトという働き方をなめていた。ファミレスのホールスタッフの仕事が正直こんなに大変だとは思わなかった。しかも時給は驚くほど安い。こんなに安い時給でてきぱきと働いている同僚たちをいまだに信じられない目で見てしまう。  勤務時間が終わり更衣室で制服を脱いで着替えていると、金森千鶴(ちづる)さんに話しかけられた。金森さんはこのアルバイト十年目のベテラン。年は私より三歳年上の四十歳。背が高くて小顔の美人。頭がよくて仕事もできる。一昔前に流行ったクールビューティーという言い方がぴったりの人。もっと稼げる仕事をすればいいのに、とこの人と話すたびにいつも思う。  「仁科さん、どう? 仕事は慣れてきた?」  「いえ、要領悪くてすいません」  まだ旧姓で呼ばれることに慣れない。離婚するとき子どもたちと違う姓になるのが嫌だったから、旧姓に戻したくないと俊輔に要望したけど、  「一度リセットした方がいい。あなたにとってもね」  とあっさりと却下された。  「離婚したご主人、学校の先生だったんだっけ? ということは仁科さん、ずっと専業主婦で外で働いてなかったんじゃない? それならなかなか仕事に慣れないのもしょうがないよ」  専業主婦だったことはない。むしろ専業主婦を馬鹿にしていた。女だからといって仕事しないで狭い家の中に閉じこもるなんて、籠の中の鳥みたいだと。  そんな私が仕事も家庭もどちらも失った。笑い話みたいだけど当事者としてはまったく笑えない。今の私は糸の切れた凧と同じ。自由ではあるけれど、大空を風任せでいつまでも漂うだけ。  「仁科さんはなんで離婚したの?」  いきなり直球が来た。たいして親しくないのに、というか親しくてもそんな込み入った質問をするのは失礼ではないだろうか。  「いろいろあって……」  もとから態度悪かった上に不倫してるのがバレて挙げ句の果てに不倫相手の子どもを妊娠してしまったから、とはとても言えない。  「つらいことがあったみたいね」  金森さんはうんうんとうなずいた。励ますような笑顔を作って。  「お子さんもいるんだよね。実は私もシンママでさ。離婚したのは五年前。それまで元旦那は浮気にDVにやりたい放題だった。いまだに子どもに会わせろとやいやい言ってくるけど、養育費だけ払わせて一度も会わせてない。それが私の復讐」  娘が二人いるけど、同居してないから、正確に言えば私はシングルマザーではない。つまり私は金森さんの元夫と同じ立場。離婚の理由を正直に話さなくてよかった。  「育児しながら仕事して、シンママ生活はつらいよね。でも子どもの笑顔を見たらつらい気持ちなんて吹き飛ぶよね。生活は大変だけど、私は今の自分に誇りを持ってるんだ」  私の場合、連れ去った娘たちは私の交際相手に殺すぞと脅迫されて逃げ出して、俊輔のもとに戻っていった。それから子どもの笑顔なんて見たことない。たまに会えば、浮気女死ねと罵られた。今は会わせてももらえない。次の面会は慰謝料を払い終わってから、と俊輔に通告されている。勝手すぎると抗議したら、不倫していたあなたに言われたくないと一蹴された。  まだ再就職はできないけど、昼も夜もバイトして慰謝料と養育費は毎月必死に払っている。慰謝料を払い終えるのはまだ二年以上先。今はもう何のために生きているかも分からない。  「ちょっと聞いてもいいですか。五年間一度も子どもに会わせてないのに、ご主人よく養育費払ってくれますね」  「向こうは復縁を希望しててさ、養育費しっかり払ってくれるなら前向きに考えるって伝えてあるからだよ。もちろん全部ウソ。私なんか死ねばいいって不倫相手の女とLINEでやり取りしてたことを私は一生忘れない!」  どうしよう。話せば話すほど胃が痛くなってくる……  「今は育児と仕事で全然余裕ないけどさ、いつかまた恋をしたいと思ってる。不倫したら〈不倫しました〉って焼印を顔に入れてほしいよね。これ以上人生の貴重な時間をくだらない男のせいで無駄にしたくないからね」  「ほ、本当にそうですね……」  「女でも不倫くらい別にいいじゃんとか言い出す馬鹿がたまにいるけど、仁科さんがそんなクルクルパーじゃなくてよかったよ」  今、私の顔色は貧血患者みたいに青白くなってるはずだけど、幸い金森さんは興奮しているせいで気づかない。  「今の私の夢は浮気もDVもしない男と再婚して、〈僕のお父さんは新しいお父さんだけです、もう僕と会おうと思わないで下さい〉と子どもが書いた手紙をあの男に送りつけてやること。今すぐは無理でも、今年か来年のうちには必ず実現してみせるんだから!」  金森さんがクールビューティーのイメージをぶち壊す勢いでこぶしを振り上げて決意表明している前で、私の心はみっともないくらいぶるぶると震えていた。私の過去がバレる前に、アルバイト先を変えた方がいいかもしれない――
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