プロローグ

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プロローグ

 四十年生きてきた。平凡な人生だったと思う。警察や弁護士と関わることは一度もなかったから。  でもそれは過去の話。四十歳にして僕は否応なしに平凡でない人生に足を踏み出すことになった。  三月。月のきれいな夜。でも、そのときの僕に月の美しさを愛でる余裕などなかった。  「こんばんは、俊輔(しゅんすけ)です! こちらに夢香(ゆめか)たち、来てませんか?」  妻子が来てるのは分かっている。さっきまで娘たちの笑い声が聞こえていたから。僕が玄関の呼び鈴を鳴らした途端、リビングのある二階から物音がしなくなった。  時間は夜の九時。こんな時間に義実家を訪問するのが非常識なのも分かっている。でも今は非常時。電話しても出てもらえないなら、直接来るしかない。  家の中から物音はしないが、二階の窓から煌々と光が漏れている。夢香たちと義父母が中にいるのは間違いない。  何度も呼び鈴を鳴らし、玄関先から大声を張り上げる。  応答がないから、お邪魔しますと言いながら玄関ドアに手を伸ばすと、鍵は締まってなくて普通に開いた。ドアを開けると、目の前に義父が険しい顔をして仁王立ちしている。  「おまえ、夢香と娘たちに暴力を振るってるそうだな。会わせるわけにはいかん。今日のところは帰れ」  「誤解です。僕は暴力なんて……」  「夢香も孫もおまえに会いたくないと言ってるんだ。さっさと帰れ! 警察呼ぶぞ!」  「呼びたければどうぞ。僕はやましいことは何もしてませんから」  と言ってるそばから、一台のパトカーが義実家の前に停まった。サイレンは鳴らしていない。制服を着た警官たちがこちらに走ってくる。僕はまだ事態を把握できていなかった。  「おまわりさん、こいつです!」  義父が叫び、警官三人が義父と僕のあいだに割って入る。僕の体を玄関から押し出して。  「鳥居俊輔さんですね」  「そうですけど……」  「奥さんがあなたからDVの被害を受けてると以前から警察に相談に来ていました。あなたを奥さんに会わせるわけにはいきません。至急ここから退去して下さい」  「DV? 僕は暴力なんて……」  そのとき二階から降りてきた夢香の姿が見えた。なぜか怯えた顔をしている。  「夢香!」  無意識に警官を押しのけて前に進もうとすると、別の警官に後ろからタックルされて倒された。さらに別の警官がのしかかってきて、僕を制圧した。柔道かラグビーでもやってそうな、巨体なのに俊敏な男だった。息苦しく身動きも取れない。そうなった今でも、僕はまだこの非現実的な現実を受け入れられずにいた。  「住居侵入罪で現行犯逮捕します」  逮捕? 僕が? 状況を飲み込めず、僕はひたすら混乱していた。  「二度と刑務所から出てこないで!」  と叫んだのは夢香。刑務所? そんなことになったら公務員の僕はクビになってしまう。手錠をかけられて、僕はパトカーに連行された。一瞬、ざまあみろと言いたげに笑う夢香の姿が見えた。  「僕はこれから……?」  「警察署で話を聞かせてもらうよ」  担任している教え子たちの顔が走馬灯のように脳裏に浮かぶ。  僕はもう教壇に立てないのか? 本当に刑務所に行かなければならないのか? もう二度と愛する妻子たちと会えないのか? もしかして僕の人生は終わってしまったのか?  パトカーに乗せられたあとも、僕の脳内は疑問符だらけだった――
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