第一章 平凡の終焉

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第一章 平凡の終焉

 僕の名は鳥居俊輔。四十歳。三つ年下の妻と九歳と七歳の娘二人の四人暮らしだった。僕は県立高校の教員。妻の夢香は住宅メーカーの会社員。  九歳の娘は小三、名前は真希(まき)。七歳の娘は小一、名前は望愛(のあ)。二人の名前をつなげると〈希望〉になる。そうなるように夢香が命名した。平凡な暮らしだったけど、確かに希望にはあふれていた。少なくとも僕にとってはそうだった。  僕は高校教師。クラスの生徒の個票を見れば、ひとり親家庭が約半数。結婚して出産して両親で子育てする。この国ではそんな平凡な暮らしが平凡でなくなりつつあることを実感している。  平凡な人生。僕はそれでよかった。でも妻の夢香にとってはそうではなかったのだろうか?  春休み間近の三月半ばの月曜の夜八時頃、仕事を終えて帰宅すると、妻の姿も娘たちの姿もなかった。それだけならただの外出だろうから、焦る必要はない。  でも、三人の荷物も家具も家電も現金も通帳も印鑑も、何もかもが持ち去られ、残されていたのは僕のわずかな荷物だけ。子どもたちを連れて逃げ出した? もう二度と戻らないつもりで? そのとき僕の顔色は真っ青だったと思う。青天の霹靂とはこのことだ。  LINEでメッセージを送っても既読にならず、電話しても出ない。夢香の実家にいるのだろうと踏んで、車で二十分の距離にある義実家に妻子を迎えに行くことにした。このとき僕はまだ話し合いで穏便に解決できると信じていた。  慌てて車で義実家に向かった僕は、通報されて駆けつけた警官に玄関先で逮捕された。  その夜は警察署内にある留置所に入れられた。一睡もできないまま夜が明けて、朝から住居侵入の容疑で取り調べを受けた。  「何度でも言いますが、僕は妻にも娘たちにも暴力を振るったことはありません」  「もしそうならなぜ奥さんはあなたにDVされたと主張したんでしょうか?」  「それは分かりません」  「あなたは奥さんが嘘をついてると言いたいわけですか?」  「そういうわけじゃ……」  「奥さんが嘘をついてないとすると、あなたが奥さんに暴力を振るったということが事実だと決定するけど、それでいいんですか?」  妻を悪く言いたくないし、かといって身に覚えのないDVを認めるわけにもいかない。僕からDVを受けてると夢香が主張してるなんて、いまだに絵空事のように思われてならない。確かにここ何年か僕らの関係は良好だったとは言えない。でも夢香が僕を罠にはめようとする意味が分からなかった。  刑事による事情聴取に、僕の歯切れはずっと悪かった。歯切れが悪いから、やっぱりやましいことがあるのだろうと思われて、さらに鋭く尋問されるという悪循環。底なし沼に足を取られたような思いがした。もしかしてこのまま家に帰れず、刑務所に送られるのかと恐怖に震えた。  刑事とはこんなやり取りもあった。  「あなたが奥さんにDVしてないという証拠はありますか?」  やった証拠なら分かるが、やってない証拠を出せというのは無理だ。それは悪魔の証明というものだろう。  「逆に、僕が妻をDVしたという証拠はあるんですか? 妻が警察にDVの相談に行っていたこと以外で」  「あるよ」  と即答されて驚いた。  「奥さんは毎日日記を書いていてね。その日記にあなたから受けた暴力について詳しく書かれていたよ」  それを聞いて、僕の記憶の方が間違ってるのかもと思うようになった。実は僕はとんでもないDV夫で、妻に暴力を振るった記憶がすぐに消失しているだけではないのか? あと一日留置期間が伸びていたら、僕は罪を認めていたかもしれない。
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