第二十章 地獄でもう一度殺すつもりだ

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 結局、杉原弁護士が最初に提案した制裁案を採用した。奥さんに不倫を知らせないことを条件に相場を無視した高額慰謝料を請求する、というもの。素人目には恐喝にしか見えないが、そうならないように杉原弁護士がうまく交渉してくれるそうだ。  交渉の結果、慰謝料は千五百万円。双方に守秘義務。違反した場合の罰金は百万円。  もちろん速攻で友子弁護士に証拠を示して全部バラした。罰金百万円は取られたが、その代わり奥さんから証拠代として百万円もらったからプラマイゼロ。  鷲本夫妻は離婚しなかった。でも憲和弁護士は当分針のムシロだろうし、友子弁護士もフラバに苦しめられるだろう。いつまでも苦しめばいい。あなたたちがいくら苦しんだところで、突然かわいい子どもを連れ去られてそれからずっと会わせてもらえない別居親の苦悩には全然及ばないだろうけどね。  和海とともに証拠を示して校長と談判して、僕が逮捕された件は完全に冤罪だったと理解してもらえて、問答無用で担任や部活の顧問を外されたことの謝罪もされた。新年度から改めて三年生の担任にするという内示も受けた。  「いろいろあったけど、家から夢香がいなくなったこと以外はこれで元通りかな」  「不倫DV妻がいなくなって慰謝料で大金ゲット。元通りというより大成功だろうよ。焼肉くらいおごれよ」  というから、週末の夜、誠也も誘って三人で食べ放題の焼肉屋に行って、一番高い和牛食べ放題コースをおごった。本当は小麦も誘いたかったが、女子生徒を私的に食事に誘うのはコンプライアンスの面で問題があるだろうから自粛した。  季節はすっかり冬。学校ももうすぐ冬休み。焼肉の一番おいしい季節。  珍しく雪が降り積もる夜だった。心ゆくまで和牛とお酒を堪能してタクシーで帰宅すると、マンションのエントランスの前に見慣れぬ人影があった。若い女のようだ。白地に不自然な赤い柄のコートを着ているなと思ったが、柄だと思ったものは血液かもしれない。  「鳥居俊輔だな」  「そうだけどあなたは?」  「望月茉利子」  と答えるなり、彼女は僕の胸に刃物を突き立てた。茉利子の不倫を夫の保に告げ口した復讐に来たらしい。保と連帯して鷲本夫妻を地獄に落とそうと思ったら、保の妻に刃物で刺された。これも因果応報なのか?  「こんなことしたらご主人が悲しむよ……」  「それはない」  茉利子は刃物を引き抜いて、僕の胸に再度刃物を突き立てた。僕の体は雪の上に崩れ落ち、雪が鮮血に染められてゆく。  「私が今も不倫していることをおまえから知らされても、保は気づかないふりを続けていた。昨日、鷲本友子から慰謝料を払えという内容証明が届いて、それを同居してる姑が受け取って中を見てしまった。だから離婚しとけばよかったのに何回裏切られたら気が済むの! って姑から責められて保は自殺したよ。〈鷲本を殺せば君を許す〉という書き置きだけを私に残して。私と出会ってから保にはずっと悲しい思いをさせてきたけど、これでもう悲しさを感じることもなくなった」  「それなら鷲本を殺せばいいだろう?」  「あの夫婦なら真っ先に殺してきた。おまえで三人目だ。憲和とは手切れ金をもらって一回関係が切れたんだ。たった百万だったから、たったこれっぽっちで私から自由になれると思うなと私の方からまた復縁を迫ってしまった。三人殺したから私は死刑だろうな。死ぬことに悔いはないが、お腹にいる保の子を出産するまでは死刑を待ってもらうつもりだ。私は鷲本夫婦といっしょに地獄に落ちるが、おまえは保のいる天国に行って、あいつが寂しくならないように話し相手になってやってくれ。私は地獄でもう一度あの夫婦を殺すつもりだ」  茉利子のコートの赤い柄は鷲本夫妻の返り血だったようだ。血も涙もないと思っていた二人の体にも赤い血が流れていたんだな、と僕は妙なことに感心していた。  「これで許してくれるんだよな!」  茉利子は誰に言うでもなくそう口走ると、エントランスの照明に照らされながら、それからずっとケラケラと笑い続けた。薄れゆく意識の中で、こんなことなら鷲本夫妻を僕の手で殺しておけばよかったな、とただそれだけを後悔していた。
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