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男の後ろには、小さな引き出しがたくさん付いた箪笥が並んでいる。
その上の壁で、カチカチと柱時計が時を刻む。
箪笥の右手の奥には廊下があり、藍の暖簾が目隠ししている。
左の土壁には窓があり、磨りガラスの向こうで笹葉が揺れているのが見えた。
戸惑いに目を泳がせた後、名刺と男の顔を見比べる。
常にニヤニヤと薄笑いを浮かべるその表情は、名前の通り、落語家か何かだったのかもしれない。
けれど、人を笑わせるような軽い雰囲気はない。どこか達観して冷めた雰囲気を纏っているのだ。
そもそも名刺など受け取った事のないしおりは、その扱いに困った。手の上で持て余していると獄楽は、
「ポケットにでも入れておきなさい。あなたは再びこの店に来る事になるでしょうから、失くしてはいけませんよ。それは質札代わりです」
と、再びニヤリと口角を上げた。
「……さて、ラムネを飲んでからで結構ですよ。何を質入れなさりたいのです?」
そう言われ、しおりはハッとラムネ瓶を床に置き、ポーチから小さな包みを取り出した。
それを両手に包み、しばらくその感触を確かめた後、彼女はゆっくりとその包みを解く。
そして手に載せて獄楽に示すと、彼はわずかに眉を上げた。
「ほう、消しゴム、ですかな」
「駄目、ですか……?」
「そんな事はございません。うちは、モノに纏わる不思議な話をお預かりするのが本業で、モノ自体の価値は関係ありませんからな。しかし……」
彼は顔を前に出し、少しだけ目を開いた。――その隙間に見えた、彼岸花を濡らす露のように赤い目が、しおりの心臓をドクンと脈打たせる。
「モノと記憶とは、得てして深い繋がりを見せるものです。モノを手放すという事は、それに纏わる記憶をも手放す、という事。そこをよくよくお考えの上、質入れしてくださいますよう」
「は、はい……」
しおりは再びギュッと消しゴムを握り締めた。そしてゆっくりと手を開き、そこに書かれた名前を確認してから顔を上げた。
「分かりました。……お願いします」
「左様ですか。では……」
獄楽はしおりの手から消しゴムを取り上げた。そして細い目で念入りに確かめる。
「女の子好みのするキャラクターのケースに入った、どこにでもある消しゴムですな。時価は百円といったところ。角が全て綺麗に整っていますので、新品ですな。しかし、包装は剥がされ、裏に名前が入っている。……しおり、とは、お客様のお名前ですかな」
「はい」
「しかし、油性ペンで書かれたこの字は、あなたが書いたにしては少々荒っぽい。――そこに、このモノの持つ物語があると読みましたが、如何ですかな?」
そう獄楽が言ったところで、しおりの目に込み上げた涙が溢れた。慌ててハンカチを取り出し涙を押さえるが、肩の震えは抑えられない。
声を殺して泣くしおりを、獄楽はじっと眺めていた。
しばらく泣いた後、しおりは赤く腫れた目を上げた。
「ごめんなさい……」
「お気に召されるな。別れに涙は付き物ですからな。涙の量は、そのモノに寄せる想いに比例する。……さあ、気が済みましたら、話してご覧なさい」
湿ったハンカチを折りたたんで、しおりはゆっくりと口を開いた。
「私がまだ小学四年生の頃の話です――」
***
しおりは、クラスに馴染めなかった。
性格が大人しく、賑やかにはしゃぐクラスメイトたちと、どう接すればいいのか分からなかった。
だから休み時間は席で本を読んだり、長い休み時間には、誰にも知られないよう、一人で校内を探検したりした。
この小学校は、築六十年の古いもの。誰ともなしに「トイレの花子さん」だの「夜中に二宮金次郎が走る」だの、学校の怪談が囁かれていた。
だから、騒がしい校舎から一人離れるのには、勇気が必要だった。
校舎の横に繋がる給食室。その前を通る、スノコの並んだ渡り廊下の先が体育館。
その裏にある狭い植え込みまで来ると、賑やかな声が薄らぐ。それと同時に、得体の知れない湿気がじんわりと漂いだした。
忘れ去られたように草の生い茂ったその奥に入る勇気はなかった。時折、用務員のおじさんが草刈りをするのだが、先月足を怪我したらしく、それからは誰も手入れしていない。
体育館の陰の薄暗い隙間。その向こうに寂れた小屋があるのを、しおりは知っていた。
以前、用務員のおじさんに聞いた。
――あそこには、今は誰も使っていないトイレがある。
昔、木造校舎だった頃の名残りらしい。
校舎の外に造られたこのトイレだけなぜか残され、今は植木の手入れに使う道具などを仕舞う物置になっている。
もちろん、入った事はない。そんな勇気はない。
もしかしたら、用務員のおじさんが子供を近付けないように吐いた嘘かもしれないし、本当かもしれない。
植木の茂る隙間から、その灰色の屋根が僅かに見えるのを、こうして眺めるのが精一杯だ。
けれど、ほとんど毎日のように、しおりはここに来た。
ここしか休み時間に身を隠す場所を知らないから。
誰も来ない体育館の陰に身を潜めて、薄気味悪い小屋をじっと眺める。
それが日常だった。
――ある日、消しゴムがなくなるまでは。
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