CASE1 菅池しおりの場合

3/12
前へ
/12ページ
次へ
 その日は国語のテストだった。  しおりは勉強はできる方だった。だからスラスラと問題を解いていたのだが、漢字の書き間違いに気付き鉛筆を止めた。  そして焦った。  ――消しゴムが、ない。  昨晩、筆箱をランドセルに入れた時には確かにあった。  小さくなったからと、ママが用意してくれた新品の消しゴム。この前のテストが百点だったご褒美の、お気に入りのキャラクターのもの。  青い油性ペンで、しおりの名を入れてくれた。  一限目の算数で初めて使う時、少し勿体ないような気持ちになったのも覚えている。  それなのに……。  頭が消しゴムの事でいっぱいになり、鉛筆はピタリと動かなくなった。  どうしよう。新品をなくしたなんて知ったら、ママは悲しむだろう。もう二度と、あんなに可愛い消しゴムを買ってくれないかもしれない。  焦るばかりで時間は過ぎ、テストは回収された。  その後の休み時間。  落ち込んだ気持ちのまま教室にいるのが辛くて、しおりは席を立った。  そして、机と机の隙間を出口に向かっていた時。  しおりは見てしまった。  斜め後ろの席の男の子の机の上に、しおりのものと同じ消しゴムがあった。  ……けれど、まだ大きいのにケースはボロボロに破れて、真っ白だった角は全部真っ黒になっていた。  しおりは思わず足を止めた。  その男の子の名は、圭人(けいと)。  クラスの中でも特に声が大きく、ガサツな性格だ。  その時も、友達数人と大きな声で騒いでいたのだが、しおりが止まるのを見て、声を掛けてきた。 「何だよ、何か用かよ」  心臓が縮み上がる思いだった。  あまりクラスメイトと話す事もないが、圭人のような男子は特に苦手だった。  それでも、笑顔で消しゴムを用意してくれたママの顔を思い出して、しおりは精一杯の声を上げた。 「……その消しゴム、私の……」  蚊の鳴くようなしおりの声は、圭人のガラガラ声に簡単に掻き消された。 「は? 聞こえねーんだけど」 「その消しゴム、私の」  しおりは絞り出すように繰り返し、圭人の机に手を伸ばした。  その手を、圭人が思い切り払う。指を突いて、しおりは手を引っ込めた。 「消しゴム? これは妹のやつだよ」 「でも、名前が……」  言うが早いか、圭人は消しゴムを取り上げ、裏側をしおりに向けた。  ……そこは、鉛筆で真っ黒に塗り潰されており、名前は見えなかった。 「名前? そんなモンねーよ」 「でも、塗り潰して……」 「妹の名前が恥ずかしいから塗ったんだよ! 文句あんのか?」  圭人の大声で、次々とクラスメイトが集まってきた。その視線が痛くて、しおりは顔を伏せた。 「おいおい、俺を泥棒呼ばわりするとは、いい度胸してるじゃねーか。証拠出せよ、証拠!」  圭人の取り巻きは、面白おかしく「証拠! 証拠!」と騒ぎ立てる。その後ろの女子グループは、ヒソヒソとしおりを見ながら囁き合っている。  耐えられなかった。  せめて涙が(あふ)れるのを見られないよう、しおりは教室を飛び出した。  こんな惨めな姿を、誰にも見られない場所。  給食室の前の渡り廊下を走り、体育館を廻る。その裏に駆け込むと、しおりは顔を両手で隠して座り込んだ。  冷たいコンクリートの壁に背を預け、半ば草に埋もれながら泣きじゃくる。  誰も慰めてくれない、誰も味方してくれない、たった一人で。  チャイムが遠くに聞こえた。  でも、教室に戻る勇気はなかった。  けれど、ここに座っていては、そのうち見付かってしまうだろう。  ――その時、頭に浮かんだのは、草むらの奥。  体育館の陰の薄暗い隙間にある、灰色の屋根。  あそこなら、絶対に誰も来ないに違いない。  その時、なぜか怖くなかった。  それ以上に、劣等感が強く心を支配していた。  しおりはチャイムが終わるのも待たず、体育館のすぐ横の、ガタガタとひび割れた側溝の蓋伝いに、草むらの奥へと駆け出した――。  ***  賽憂亭獄楽は、何も言わずに聞いていた。  相変わらずの薄笑いを浮かべたまま。  しおりは再び込み上げてきたものを拭うため、目にハンカチを当てた。  すると獄楽は、しおりの前におしぼりを差し出す。 「目の腫れは冷やした方が良い」  おしぼりを受け取ると、氷のように冷たい。先程とラムネといい、一体どこから出しているのか。  そう怪訝に見返したしおりに、獄楽はニコリとして、文机の横に木桶を押し出した。  氷水を満たしたそこには、ラムネやニッキ水の瓶が何本か浸され、そこにおしぼりが何枚か掛けられている。 「暑い時には、これが一番ですからな」  ――本当に不思議な人だ。  いや、獄楽だけでなく、この店が不思議な場所なのだ。  コチコチコチと時を刻む柱時計の音が、全ての雑音を消しているようで、真の静寂とはこういう事を言うのだろうと、そんな気にさせる空間。  エアコンどころか扇風機すらないのに、ひんやりと湿気を帯びた空気は、しおりを柔らかく包む。  古臭いけれど埃っぽさを感じない調度品に、氷が割れた拍子にカチリと鳴るラムネ瓶。  しおりの祖父母は幼い頃に亡くなり、それ以降行き来もなかったため、古い家屋というものを、彼女は知らない。  そんなしおりでも、この空間の持つ強烈な懐かしさに(くる)まれると、どうしようもなくホッとした気分になるのだ。  冷えたおしぼりを目に当てる。すると頭の中まで洗われるようで、しおりは思わずふぅと息を吐いた。  満足気に口角を吊り上げた獄楽は、今度はニッキ水を彼女に差し出した。  人工的な緑色をしたその液体は、なぜこんなにも清々しく心を和ませるのだろう。  キャップを開け一口含めば、ピリッとした香味が舌を刺激する。  この味わいの前では、涙の理由もささやかな事に思えて、しおりは獄楽に視線を戻した。  彼は何も言わずに、しおりの言葉を待っていた。批評もせず、同情もせず、ただただ薄く笑みを浮かべて。  その表情が、善も悪も、嘘も真も、全て受け止めてくれる気がして、しおりは再び口を開いた。 「まだ虫が多くいなくて、かといって凍えるような気候でもなくて、草むらの中を走っても、何の不安もありませんでした。けれど――」
/12ページ

最初のコメントを投稿しよう!

7人が本棚に入れています
本棚に追加