CASE1 菅池しおりの場合

5/12
前へ
/12ページ
次へ
 扉の向こうからは、声以外の物音は一切しない。  ただ声だけが、ぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。 「まるでいないみたいに、みんなに無視されて、それで、私……。まさか、こんなところに来る人がいるなんて思わなくて、ごめんなさい」  声はまたもや謝る。  しかし奇妙だった。しおりはずっと扉を見据えているが、まるで人の気配を感じないのだ。  声の主も、しおりと同じように、息を殺して身を潜めているのか。  ならばなぜ、わざわざ声を掛けてきたのか。  ――もしや、扉の向こうにいるのは……。 「怖くはない? 大丈夫?」  だが、気遣う声は優しかった。……これまで教室で掛けられた、どの言葉よりも。 「こんなところに来るなんて、よほど辛い事があったのね。……もし良かったらだけど、聞かせてくれない?」  全身から力が抜ける感じがした。張り詰めていたものが一気に解けて、しおりはまた嗚咽を漏らした。  顔の見えない存在というのは不思議なものだ。  SNSと同じ感覚かもしれない。  何を喋っても受け流してくれるのではないかと錯覚を起こし、洗いざらい語ってしまうのだ。  しおりもこの時、姿の見えない声だけの存在に心を許し、教室であった事を話した。  声は時折相槌を打ちながら、静かにしおりの話を受け入れた。  そして再び泣き(むせ)ぶ彼女に言った。 「可哀想なしおり」  その言葉に、しおりは顔を上げた。 「……え?」 「しおりは何も悪くないのに」  優しく同情する声は、しおりを驚かせた。  ――ずっと言われてきた。  友達がいないのは、自分から誘わないから。  みんなが振り向いてくれないのは、声が小さいから。  だから、消しゴムを取り返せなかった事も、強く言えなかった自分が悪いと思っていた。  だから、どうしようもなく悲しくて、教室から逃げたのだ。  声は繰り返した。 「しおりは何も悪くないのに、おかしいよ」 「…………」 「悪いのは、消しゴムを盗んだ子と、その子の味方をした子たち。しおりは何も悪くない」  嬉しかった。  初めて自分を分かってくれる人に出会えたと思った。  ペンキの剥げた扉の向こうで、気配を殺している声だけの存在が、この時、しおりの中でとてつもなく大きなものになった。 「ありがとう……」  震える声でそう返すと、声は続けた。 「辛かったのね。ずっとずっと、辛かったのね」 「…………」 「良かったわ、あなたのお話を聞けて。……もしかしたら、私、あなたの味方になれるかもしれない」  その言葉に、再びしおりは目を丸くした。 「……味方?」 「そう。あなたはもう一人じゃないわ。……そして、私ももう、一人じゃない」  雲が動き、ひび割れた窓ガラスから入る日差しが揺れた。  窓の隙間から、雀の声がチュンチュンと小屋に響く。  この狭い空間が現実世界と繋がっている。その光景は、しおりにそう認識させた。  声はなおも優しくしおりに語り掛ける。 「……ねえ、私がその消しゴム、取り返そうか?」 「えっ……」  でも、どうやって?  声の主が、この扉から出てくるのだろうか。  そう思うと、なぜかしおりの心に、逃げ出したいほどの恐怖が湧き上がった。  こんなに優しい言葉の主が、こんなに暗く汚ないトイレの廃墟の個室から、どんな顔をして出てくるのか。  知ってはいけない気がした。  ――そしてしおりには、その姿は必要なかった。  耳障りの良い声。それだけで十分だったから。  しおりの心配をよそに、声はカラカラと明るく笑った。 「さっき言ったでしょ? みんな、私の事が見えていないの。だから、簡単よ」 「でも……」 「大丈夫。私はあなたの味方よ」  声はそう言うと、おどおどした様子で続けた。 「でも、お願いがふたつあるの」 「何?」  少しの沈黙があった。  それから声は、ゆっくりとこう言った。 「消しゴムを取り返したら、お友達に、なってくれる?」  ――友達。  しおりが心から憧れた言葉だった。  こんな気持ちは、誰にも分かるはずはないと思っていた。 「友達は何人できた?」 「友達を誘ってみたら?」 「友達に相談したら?」  『友達』がいるのが当たり前の前提で話を進める大人たち。  そんな中で、「今日も友達ができなかった」と、胸が裂けそうな思いで帰宅する日々。  教室だって同じだ。  一人でいる、という事が、まるで悪い事のような視線。  だから、いかに「友達がいない」という事実を誤魔化すか、それに神経をすり減らすのだ。  休み時間にはそっと、教室を抜け出す。  負の連鎖だとは分かっている。一人、誰も来ない場所に隠れていれば、友達なんかできるはずがない。  そんな罪悪感を押し殺して、「ただいま」と笑顔で帰宅する。  こんな毎日に、しおりは疲れ果てていた。  ……そこから抜け出せるかもしれない存在が、今、この扉の向こうにいるのだ。  姿は見えない。こんな不気味な場所に身を隠している、得体の知れない存在。  それでもいいと、しおりは思った。  今日、心からの笑顔で帰宅できるのなら。  しおりは答えた。 「……うん」  すると声は弾けるように答えた。 「ありがとう、嬉しい」 「私もだよ」  友達という存在は、こんなにも心を安らかにするのか。自然としおりも、笑顔になっていた。 「じゃあ、もうひとつのお願い。……これは、友達としての、内緒のお約束だよ」 「何?」 「ここのトイレは、私たちだけの秘密の場所」 「でも、用務員のおじさんが来るでしょ?」  そう聞くと、声は言いにくそうに答えた。 「おじさん、先月足を怪我して、辞めてしまったの」 「そう、なんだ……」 「だから、ここにはもう、誰も来ないのよ」  声は途切れた。だが、期待に満ちた空気が、しおりにも伝わってきた。  しおりは答えた。 「うん。ここは、私たちだけの秘密基地。誰にも内緒よ」
/12ページ

最初のコメントを投稿しよう!

7人が本棚に入れています
本棚に追加