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扉の向こうからは、声以外の物音は一切しない。
ただ声だけが、ぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
「まるでいないみたいに、みんなに無視されて、それで、私……。まさか、こんなところに来る人がいるなんて思わなくて、ごめんなさい」
声はまたもや謝る。
しかし奇妙だった。しおりはずっと扉を見据えているが、まるで人の気配を感じないのだ。
声の主も、しおりと同じように、息を殺して身を潜めているのか。
ならばなぜ、わざわざ声を掛けてきたのか。
――もしや、扉の向こうにいるのは……。
「怖くはない? 大丈夫?」
だが、気遣う声は優しかった。……これまで教室で掛けられた、どの言葉よりも。
「こんなところに来るなんて、よほど辛い事があったのね。……もし良かったらだけど、聞かせてくれない?」
全身から力が抜ける感じがした。張り詰めていたものが一気に解けて、しおりはまた嗚咽を漏らした。
顔の見えない存在というのは不思議なものだ。
SNSと同じ感覚かもしれない。
何を喋っても受け流してくれるのではないかと錯覚を起こし、洗いざらい語ってしまうのだ。
しおりもこの時、姿の見えない声だけの存在に心を許し、教室であった事を話した。
声は時折相槌を打ちながら、静かにしおりの話を受け入れた。
そして再び泣き咽ぶ彼女に言った。
「可哀想なしおり」
その言葉に、しおりは顔を上げた。
「……え?」
「しおりは何も悪くないのに」
優しく同情する声は、しおりを驚かせた。
――ずっと言われてきた。
友達がいないのは、自分から誘わないから。
みんなが振り向いてくれないのは、声が小さいから。
だから、消しゴムを取り返せなかった事も、強く言えなかった自分が悪いと思っていた。
だから、どうしようもなく悲しくて、教室から逃げたのだ。
声は繰り返した。
「しおりは何も悪くないのに、おかしいよ」
「…………」
「悪いのは、消しゴムを盗んだ子と、その子の味方をした子たち。しおりは何も悪くない」
嬉しかった。
初めて自分を分かってくれる人に出会えたと思った。
ペンキの剥げた扉の向こうで、気配を殺している声だけの存在が、この時、しおりの中でとてつもなく大きなものになった。
「ありがとう……」
震える声でそう返すと、声は続けた。
「辛かったのね。ずっとずっと、辛かったのね」
「…………」
「良かったわ、あなたのお話を聞けて。……もしかしたら、私、あなたの味方になれるかもしれない」
その言葉に、再びしおりは目を丸くした。
「……味方?」
「そう。あなたはもう一人じゃないわ。……そして、私ももう、一人じゃない」
雲が動き、ひび割れた窓ガラスから入る日差しが揺れた。
窓の隙間から、雀の声がチュンチュンと小屋に響く。
この狭い空間が現実世界と繋がっている。その光景は、しおりにそう認識させた。
声はなおも優しくしおりに語り掛ける。
「……ねえ、私がその消しゴム、取り返そうか?」
「えっ……」
でも、どうやって?
声の主が、この扉から出てくるのだろうか。
そう思うと、なぜかしおりの心に、逃げ出したいほどの恐怖が湧き上がった。
こんなに優しい言葉の主が、こんなに暗く汚ないトイレの廃墟の個室から、どんな顔をして出てくるのか。
知ってはいけない気がした。
――そしてしおりには、その姿は必要なかった。
耳障りの良い声。それだけで十分だったから。
しおりの心配をよそに、声はカラカラと明るく笑った。
「さっき言ったでしょ? みんな、私の事が見えていないの。だから、簡単よ」
「でも……」
「大丈夫。私はあなたの味方よ」
声はそう言うと、おどおどした様子で続けた。
「でも、お願いがふたつあるの」
「何?」
少しの沈黙があった。
それから声は、ゆっくりとこう言った。
「消しゴムを取り返したら、お友達に、なってくれる?」
――友達。
しおりが心から憧れた言葉だった。
こんな気持ちは、誰にも分かるはずはないと思っていた。
「友達は何人できた?」
「友達を誘ってみたら?」
「友達に相談したら?」
『友達』がいるのが当たり前の前提で話を進める大人たち。
そんな中で、「今日も友達ができなかった」と、胸が裂けそうな思いで帰宅する日々。
教室だって同じだ。
一人でいる、という事が、まるで悪い事のような視線。
だから、いかに「友達がいない」という事実を誤魔化すか、それに神経をすり減らすのだ。
休み時間にはそっと、教室を抜け出す。
負の連鎖だとは分かっている。一人、誰も来ない場所に隠れていれば、友達なんかできるはずがない。
そんな罪悪感を押し殺して、「ただいま」と笑顔で帰宅する。
こんな毎日に、しおりは疲れ果てていた。
……そこから抜け出せるかもしれない存在が、今、この扉の向こうにいるのだ。
姿は見えない。こんな不気味な場所に身を隠している、得体の知れない存在。
それでもいいと、しおりは思った。
今日、心からの笑顔で帰宅できるのなら。
しおりは答えた。
「……うん」
すると声は弾けるように答えた。
「ありがとう、嬉しい」
「私もだよ」
友達という存在は、こんなにも心を安らかにするのか。自然としおりも、笑顔になっていた。
「じゃあ、もうひとつのお願い。……これは、友達としての、内緒のお約束だよ」
「何?」
「ここのトイレは、私たちだけの秘密の場所」
「でも、用務員のおじさんが来るでしょ?」
そう聞くと、声は言いにくそうに答えた。
「おじさん、先月足を怪我して、辞めてしまったの」
「そう、なんだ……」
「だから、ここにはもう、誰も来ないのよ」
声は途切れた。だが、期待に満ちた空気が、しおりにも伝わってきた。
しおりは答えた。
「うん。ここは、私たちだけの秘密基地。誰にも内緒よ」
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