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「……どうして……」
震え声を絞り出すが、個室の奥の何者かは、それを無視して続けた。
「約束したじゃない、友達だって」
「…………」
「また来てほしくて、プレゼントを用意して待ってたのに」
「そんな……」
「待 っ て た の に」
逃げ出したいのに、膝が言う事を聞かない。
ガクガクと震える体から、情けない嗚咽が漏れる。
……気付いてしまったのだ。
誰にも気付かれずに、これだけのものを盗み出すなどという芸当が、人間にできるはずがない事を。
薄々は分かっていた。
けれど、それを認めてしまうのは、しおりには怖くてできなかった。
だから見て見ぬふりをしていた。
現実から、逃げていた。
――まるでいないみたいに、みんなに無視されて――
――みんな、私の事が見えていないの――
つまり、人の目には、見えない存在。
「私たち、友達だよね?」
扉の向こうの声がひび割れ、歪む。
「嫌……」
「なぜ私を避けるの? 友達だから、あなたの言う通りにしたのに」
「やめて……」
「ど う し て」
追い詰められたしおりは、掠れた声を絞り出した。
「姿が見えない友達なんて、友達じゃない」
声が途絶えた。
呼吸すらも憚られる、凍り付いた沈黙。
だがそれは、明るい笑い声に破られた。
「なら、姿を見せれば、本当の友達になれるのね」
ドン!
扉が揺れた。
ふたつ並んだ、薄黄緑のペンキの剥げた、手前の扉。
ドン!
再び揺れる。
腰を床に着いたまま、しおりは後退った。
ガチャ。
軽い金属音。閂を動かした時のような音。
声も出ない。震える顎は、ガチガチと歯を鳴らすだけだ。
――ギイィ……。
扉が動く。蝶番が軋む不快な音が、コンクリート壁に響く。
扉の厚みだけそれは動くと、だがピタリと動きを止めた。
無限とも思える時間が、小屋の内部に張り詰める。
動けない。筋肉の、神経の全てが硬直し、乾ききった目は扉の隙間に固定される。
やがてその目は、有り得ない位置にあるモノに移動した。瞳孔が拡大する。
扉の上。
真っ黒な指が、引っ掻くような形でぶら下がっている。
そして、扉の下の隙間。
床から数センチの僅かな隙間に並ぶ、黄ばんだふたつの目玉。
それがギョロリと動く。
「アハハハ ハ ハ。――これで、トモダチ、だネ」
「イヤャアアアアーー!!」
全身で振り絞った叫びで、ようやく体が動きを取り戻した。
何度も転がりながら小屋の外へ飛び出す。
草が足に絡まり、つまずき傷だらけになりながら、体育館の横へと転がり出た。
――そこで、足首を、何かが掴んだ。
ユ る サ な ィ
脳裏に声が響く。
次の瞬間。
コンクリートの渡り廊下に、頭から倒れた。
視界が闇に閉ざされ、声が消えた。
***
「……転んで、意識を失ったようです。すぐに誰かが先生を連れてきて、保健室に運ばれて、ママが呼ばれました」
「お体は、大丈夫でしたか?」
獄楽は薄い笑みのまま、しおりに訊ねた。
「はい。一応病院にも行ったんですけど、軽い脳震盪だったみたいです」
「それは良かった」
そう言うと獄楽は、再び冷たいおしぼりをしおりに差し出した。
そこで気付いた。話しているうちに、全身が嫌な汗で濡れていた。五年間、ひとりで抱え込んでいた記憶。無理もない。
首筋を拭くと、ひんやりと心地好い。ホッと息を吐いて、しおりは続けた。
「その後、どうしてあんなところに行ったのかをママに聞かれて、話しました。……頭を打って錯乱したと思われましたけど。それでも、ママが先生に伝えてくれて、みんなの持ち物は発見されました」
「それは何より」
「……一応、先生たちが個室の扉も開いて、中を見たんですけど、何もなかったみたいです」
一通り顔を拭くと、しおりはおしぼりを畳んだ。
「クラスのみんなは、一連の事件の犯人が、圭人ではないと分かりました。けれど、私が犯人だと責める人もいませんでした。私にあんな盗みができる訳ないと、一緒にいれば分かりますから。……薄々気付いたんだと思います――人間じゃない存在に」
それ以上に、無実――しおり以外のクラスメイトにとって、ではあるが――である圭人に酷い仕打ちをした事が、バレては困るのだ。
悪事が表沙汰にされる恐怖と、多少の罪悪感とが、彼らの口を閉ざさせた。
「前みたいな教室に戻りました。私は自然と架純のグループから離れて、また一人に。でも前みたいに、ひとりぼっちは恥ずかしいとか、そう気持ちはなくなって、誰にも干渉されずに、教室で一人で過ごしました」
しおりは、空になったニッキ水の瓶を置き、手持ち無沙汰におしぼりを握った。
「先生も、失くし物は戻ったんだし、面倒にしたくなかったんでしょうね。それからは、何事もなかったかのように……それに触れないように、話題にならなくなりました。……でも、圭人は、学校に戻りませんでした」
伏せた目が泳ぐ。そして、すっかり炭酸の抜けたラムネを一口飲んで、言葉を続けた。
「それから間もなく、彼、パパの仕事の都合で引っ越す事になったんです。その挨拶にだけ、彼は教室に来ました」
……さよなら。
たったその一言だけを言いに。
「私は彼に、何も言えませんでした。すぐに教室から出て行ってしまったし。けれど……」
と、しおりは、獄楽の前の文机に置かれた消しゴムに目を向けた。
「彼がいなくなったその日の帰り、私の机の奥に、それが入っているのに気付いたんです」
――少々乱雑に、黒の油性ペンで「しおり」の名が書かれた、新品の消しゴム。
「彼、噂通り、パパが再婚して年の離れた妹ができて、家の中で居場所がなかったようなんです。だから、文具も満足に買ってもらえなくて、たまたま目に付いた私の消しゴムに、手を伸ばしたのかなと」
「しかし、彼には罪悪感があった。いじめという酷い目に遭いながらも、あなたに謝りたかった」
獄楽の言葉に、しおりはコクリと頷いた。
「彼は、盗んだ新品の消しゴムを、私に返そうとしたんだと思います。少ないお小遣いを工面して。……そんな彼に、私は、酷い事をしました」
静かに時は流れる。
木桶の氷が溶け、瓶がひんやりとした音を奏でた。
「私にとっては、思い出したくない記憶です。この消しゴムも、何度か捨てようと思いました。でも、捨てられませんでした。……いつか、どこかで彼に会ったら返そう、そう思ってました。でも……」
と、しおりは顔を上げる。
「私、来年から留学する事に決まって。……もう、彼には会えません。なので……」
「左様ですか」
獄楽はニヤリと口角を吊り上げる。
「大変、興味深いお話でした。――是非、買い取らせて頂きましょう」
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