CASE1 菅池しおりの場合

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「……どうして……」  震え声を絞り出すが、個室の奥のは、それを無視して続けた。 「約束したじゃない、友達だって」 「…………」 「また来てほしくて、プレゼントを用意して待ってたのに」 「そんな……」 「待 っ て た の に」  逃げ出したいのに、膝が言う事を聞かない。  ガクガクと震える体から、情けない嗚咽が漏れる。  ……気付いてしまったのだ。  誰にも気付かれずに、これだけのものを盗み出すなどという芸当が、にできるはずがない事を。  薄々は分かっていた。  けれど、それを認めてしまうのは、しおりには怖くてできなかった。  だから見て見ぬふりをしていた。  現実から、逃げていた。  ――まるでいないみたいに、みんなに無視されて――  ――みんな、私の事が見えていないの――  つまり、人の目には、見えない存在。 「私たち、友達だよね?」  扉の向こうの声がひび割れ、歪む。 「嫌……」 「なぜ私を避けるの? 友達だから、あなたの言う通りにしたのに」 「やめて……」 「ど う し て」  追い詰められたしおりは、(かす)れた声を絞り出した。 「姿が見えない友達なんて、友達じゃない」  声が途絶えた。  呼吸すらも憚られる、凍り付いた沈黙。  だがそれは、明るい笑い声に破られた。 「なら、姿を見せれば、本当の友達になれるのね」  ドン!  扉が揺れた。  ふたつ並んだ、薄黄緑のペンキの剥げた、手前の扉。  ドン!  再び揺れる。  腰を床に着いたまま、しおりは後退った。  ガチャ。  軽い金属音。(かんぬき)を動かした時のような音。  声も出ない。震える顎は、ガチガチと歯を鳴らすだけだ。  ――ギイィ……。  扉が動く。蝶番が軋む不快な音が、コンクリート壁に響く。  扉の厚みだけそれは動くと、だがピタリと動きを止めた。  無限とも思える時間が、小屋の内部に張り詰める。  動けない。筋肉の、神経の全てが硬直し、乾ききった目は扉の隙間に固定される。  やがてその目は、有り得ない位置にあるモノに移動した。瞳孔が拡大する。  扉の上。  真っ黒な指が、引っ掻くような形でぶら下がっている。  そして、扉の下の隙間。  床から数センチの僅かな隙間に並ぶ、黄ばんだふたつの目玉。  それがギョロリと動く。 「アハハハ ハ ハ。――これで、トモダチ、だネ」 「イヤャアアアアーー!!」  全身で振り絞った叫びで、ようやく体が動きを取り戻した。  何度も転がりながら小屋の外へ飛び出す。  草が足に絡まり、つまずき傷だらけになりながら、体育館の横へと転がり出た。  ――そこで、足首を、何かが掴んだ。     ユ る サ な ィ  脳裏に声が響く。  次の瞬間。  コンクリートの渡り廊下に、頭から倒れた。  視界が闇に閉ざされ、声が消えた。  *** 「……転んで、意識を失ったようです。すぐに誰かが先生を連れてきて、保健室に運ばれて、ママが呼ばれました」 「お体は、大丈夫でしたか?」  獄楽は薄い笑みのまま、しおりに訊ねた。 「はい。一応病院にも行ったんですけど、軽い脳震盪(のうしんとう)だったみたいです」 「それは良かった」  そう言うと獄楽は、再び冷たいおしぼりをしおりに差し出した。  そこで気付いた。話しているうちに、全身が嫌な汗で濡れていた。五年間、ひとりで抱え込んでいた記憶。無理もない。  首筋を拭くと、ひんやりと心地好い。ホッと息を吐いて、しおりは続けた。 「その後、どうしてあんなところに行ったのかをママに聞かれて、話しました。……頭を打って錯乱したと思われましたけど。それでも、ママが先生に伝えてくれて、みんなの持ち物は発見されました」 「それは何より」 「……一応、先生たちが個室の扉も開いて、中を見たんですけど、何もなかったみたいです」  一通り顔を拭くと、しおりはおしぼりを畳んだ。 「クラスのみんなは、一連の事件の犯人が、圭人ではないと分かりました。けれど、私が犯人だと責める人もいませんでした。私にあんな盗みができる訳ないと、一緒にいれば分かりますから。……薄々気付いたんだと思います――人間じゃない存在に」  それ以上に、無実――しおり以外のクラスメイトにとって、ではあるが――である圭人に酷い仕打ちをした事が、バレては困るのだ。  悪事が表沙汰にされる恐怖と、多少の罪悪感とが、彼らの口を閉ざさせた。 「前みたいな教室に戻りました。私は自然と架純のグループから離れて、また一人に。でも前みたいに、ひとりぼっちは恥ずかしいとか、そう気持ちはなくなって、誰にも干渉されずに、教室で一人で過ごしました」  しおりは、空になったニッキ水の瓶を置き、手持ち無沙汰におしぼりを握った。 「先生も、失くし物は戻ったんだし、面倒にしたくなかったんでしょうね。それからは、何事もなかったかのように……それに触れないように、話題にならなくなりました。……でも、圭人は、学校に戻りませんでした」  伏せた目が泳ぐ。そして、すっかり炭酸の抜けたラムネを一口飲んで、言葉を続けた。 「それから間もなく、彼、パパの仕事の都合で引っ越す事になったんです。その挨拶にだけ、彼は教室に来ました」  ……さよなら。  たったその一言だけを言いに。 「私は彼に、何も言えませんでした。すぐに教室から出て行ってしまったし。けれど……」  と、しおりは、獄楽の前の文机に置かれた消しゴムに目を向けた。 「彼がいなくなったその日の帰り、私の机の奥に、それが入っているのに気付いたんです」  ――少々乱雑に、黒の油性ペンで「しおり」の名が書かれた、新品の消しゴム。 「彼、噂通り、パパが再婚して年の離れた妹ができて、家の中で居場所がなかったようなんです。だから、文具も満足に買ってもらえなくて、たまたま目に付いた私の消しゴムに、手を伸ばしたのかなと」 「しかし、彼には罪悪感があった。いじめという酷い目に遭いながらも、あなたに謝りたかった」  獄楽の言葉に、しおりはコクリと頷いた。 「彼は、盗んだ新品の消しゴムを、私に返そうとしたんだと思います。少ないお小遣いを工面して。……そんな彼に、私は、酷い事をしました」  静かに時は流れる。  木桶の氷が溶け、瓶がひんやりとした音を奏でた。 「私にとっては、思い出したくない記憶です。この消しゴムも、何度か捨てようと思いました。でも、捨てられませんでした。……いつか、どこかで彼に会ったら返そう、そう思ってました。でも……」  と、しおりは顔を上げる。 「私、来年から留学する事に決まって。……もう、彼には会えません。なので……」 「左様ですか」  獄楽はニヤリと口角を吊り上げる。 「大変、興味深いお話でした。――是非、買い取らせて頂きましょう」
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