ある町の花屋

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そんな決心をしてからしばらく経ったある日。 裏庭で花の世話をしていた僕に声がかかった。 「ツバキさん、お客さんです」 「…僕に?」 「はい。ツバキって男の子はいますかって」 「………」 僕はもう「男の子」なんて歳ではないのに、誰だろう、そんなことを言ってくるのは。 怪訝に思いながら店先に出ると、大きな後ろ姿が目に入った。 見覚えのある広い肩幅と逞しい背中に、心臓がドクリと跳ねる。 まさか… 10年前に同じ場所で見送った背中と今目の前にある背中が重なって、自然と数秒息を止めてしまっていた。 信じられない気持ちを持ちつつも呼びかけようとするけれど、なかなか声が出てこなくて口が何回も開閉を繰り返す。 「ぁ…ぁの…」 ようやく出てきた声は、酷く小さく掠れていた。 それでも彼にはちゃんと聞こえたようだ。大きな体がこちらを振り返る。 正面から顔を見た瞬間、腹の底から何かがこみ上げて来るような感じがした。 こっちを向いた彼が、昔と変わらない太陽のような笑顔を見せてくる。 その瞬間、何かが頬を伝う感触がした。 「…いきなり、泣かせてしまったな」 彼は静かにそう言って苦笑した。昔より少し、声が低くなっているような気がする。若々しい活力に溢れていた顔には若干張りが無くなっていて、少しだけ髭も生えていた。 長い脚を踏み出し、すぐ目の前まで歩いて来た彼を見上げる。 「…久しぶり」 「…遅いですよ」 「すまない。もっと早く来たかったんだが、色々あったんだ。 俺から約束したのに、本当にすまなかった」 「いえ、いいんです、もう。 …元気そうな姿が見られて良かった」 「…ああ。俺も、君の姿が見られて安心した。ここに来て君の姿がなかった時、もういないんじゃないかと不安になってしまったから…」 「…あなたが待っててって言ったんですよ」 「はは、それもそうか」 話しながら、どんどん笑顔になっていくのが自分でわかった。 「君は、変わらないな」 「…あなたは…ちょっと老けましたね」 「10年だからなぁ。そりゃあ老けるさ」 「色々お話は聞きたいですけど、まずは…あなたがまた来てくれたら、ずっと渡そうと思っていたものがあるんです」 「…?」 「ちょっと待っててください」 そう言い残して、裏庭へ戻って、沢山生えている黄色い花を摘む。 ずっと彼に渡すためだけに育てていたこの花が、ようやく役目を果たせる時が来た。 春の花の中では、咲くのが遅いこの花。長い期間を経てようやく花を咲かせる様子から付けられた花言葉は、今の僕に…彼に渡すのにぴったりだ。 彼の元へ戻ると、僕の持っている花を見て昔と同じように顔を綻ばせた。 「綺麗な花だな。タンポポの花の色と似ている」 「ぇえ。これはヤマブキの花です」 「ヤマブキ…花言葉は、なんて言うんだ?」 「これの花言葉は…」 それは今の僕の気持ちそのもの。 彼にずっと伝えたかった想いを乗せるように、その言葉を紡いだ。
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