山越え

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山越え

《登場人物紹介》 ヒラク…北の少数民族アノイの地に生まれた緑の髪の子ども。     母はプレーナという神を信仰する異民族の女。     母の話す言語と父の話すアノイ語を話すことができる。     幼い頃から水に関わる神や記録を見る能力がある。 ユピ…山の向こうの砂漠で母親と行き倒れていた。その時母は死亡。    ヒラクの父に引き取られ、アノイの地でヒラクと共に育つ。    自文の国の言語のほかにヒラクの母の言語を使用。ヒラクとの共通語。    銀髪碧眼の美少年だが謎が多い。 イルシカ…ヒラクの父。アノイの長の息子。      若い頃、山の向こうで遭難し、黒装束の女に助けられる。      アノイに連れ帰ったヒラクの母を妻とするが夫婦仲は悪かった。      ヒラクが自分の意志で神の支配を打ち破ることを願っている。 ヒラクの母…唯一無二の絶対神プレーナを狂信的に信仰する緑の髪の女。       透き通るような肌と琥珀の瞳を持つ。       山の向こうからイルシカに運ばせる水しか飲まなかった。       イルシカのことを嫌っていて、ヒラクが五歳の頃アノイを去る。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  ヒラクの父イルシカは、まだヒラクが生まれる以前の若い頃、山の向こうに海とも見まごう砂ばかりの広大な地を見た。  その砂漠へと去ってしまったヒラクの母。  その地の果てにはユピの国もあるという。  ヒラクたちの目指すすべては、アノイの人々が「神の国」と畏れる稜線(りょうせん)の向こうにある。  山越えは、想像以上に困難なものだった。  父が道案内をしてくれた歩き慣れた道までは、なんとか来ることができたが、その先はヒラクにとって果てしなく遠い道のりに思えた。  ヒラクは歩き進むたび、イルシカがどれほど強靭(きょうじん)な肉体の持ち主であるかを痛感した。  父が水瓶(みずがめ)を背負い、何度も往復した山道は、傾斜(けいしゃ)も厳しく足への負担も大きい。  雪解けのぬかるみに足を取られるたび、確実に体力は奪われ、進むほど先が遠くに感じられた。  日はとうに傾きかけていたが、山歩きに慣れないユピの足取りは重く、なかなか先へ進まない。  このままでは父が目印をつけておいたという狩り小屋の場所までもたどりつけないかもしれない……。焦りを感じるヒラクは知らず知らず足を速めていた。  追いつこうとするユピは息を切らし、そのたびに休息を必要とした。 「ごめん、ヒラク、僕のせいで……」    木陰に腰をおろしたユピは肩で息をしながら言った。  消耗するユピの様子に、ヒラクは自分がユピの体力を考慮する余裕をなくしていたことに初めて気がついた。 「おれの方こそ、ごめん。ユピ、疲れただろう?」  ヒラクが聞くと、ユピは弱々しく微笑んで首を横に振る。 「僕はだいじょうぶ。それよりヒラクおなかすいてない?」  そう言って、ユピは袋を差し出した。中には川魚の燻製(くんせい)を細かく(くだ)いたものが入っている。 「父さんが持たせてくれたんだ。狩りがうまくできなかった時のためにと言っていたけど、僕がヒラクの足をひっぱることもわかった上で、この袋を持たせてくれたのかもしれない」 「父さんが……」  確かにもう狩りをしている時間はない。  弱っているユピを残してヒラクが狩りに行くこともできない。  もしクマの縄張りに入っていたら、ユピは逃げることもできない。  ヒラクは袋を受け取ると、燻製をいくつか口の中に放り込んでユピに返した。 「あとはユピの分。おなかすいたら食べて」  ユピは袋を受け取り、笑ってうなずいたが、残りを食べる気にはなれなかった。  まだ一日目で激しい疲労を感じているユピは、すでに山を越えることをあきらめかけていた。  その夜、父が設営していた狩り小屋まで何とかたどりついたヒラクは、火をおこして、何とか(だん)をとった。夜の暗い冷気が辺りを支配する。決して火を絶やすわけにはいかない。(かたわ)らでは青白い顔をしたユピが眠っている。ヒラクは何度かうたたねをしつつも、火がはぜるたびに目を覚まし、朝が来るのを待った。  やがて朝の光が差し込み、ユピが目を覚ますと、今度はヒラクが安心したように眠ってしまった。  日が高くなる頃、再び二人は歩き始めた。  昨日よりさらに足取りが重い。  休息を取ることでかえって疲労が増すように感じられた。  本当は一気に進んでいきたいとヒラクは考えていたが、ユピを置いてそれはできない。当然歩みは遅くなる。その後ユピは休息をとることを拒みながら懸命に歩いたが、途中何度も足が止まり、結局は同じことだった。    やがて谷が狭くなってくると、残雪が目立つようになってきた。わらじをはいている足がひんやり冷たくなってくる。山歩きに慣れているはずのヒラクでさえ、すでに疲労困憊(ひろうこんぱい)だった。  その夜は、倒木のうろの中で夜を明かした。大木の太い根は、倒れた勢いで土を持ち上げ、地面から飛び出し、ひさしのようになっている。イルシカは目印となる矢じりをひさしの部分に突き刺していた。  奥行(おくゆき)のあるうろの中には、風で吹き寄せられた落葉がたまり、ふかふかの寝床のようになっていた。子ども二人が横になって休むには十分な広さがある。  二日連続火の番をするのはヒラクには無理だった。いつしか()き火は消えていた。それでも寒さをしのげたのは、イルシカが置いていった獣皮衣のおかげだろう。二人は身を寄せ合い、うろの中で泥のように眠った。  翌日もひたすら川を上り進んだ。  そして水が枯れると思われる場所で、ヒラクは父に言われたとおり、鹿のぼうこうをふくらませた水袋に水をたっぷりと入れた。ユピの分も含めて水袋四つを抱えたヒラクの歩みは荷の重さでさらにきついものとなった。  水袋のうちの一つはあっという間に空になった。ユピはヒラク以上に水分を必要とした。  ユピの陶器(とうき)のような肌から(すべ)り落ちる汗の量も尋常(じんじょう)ではない。疲労は限界まで達していた。  やがて川筋は枯れ沢になり、ヒラクは背丈以上の笹やぶの中を突き進まざるを得なくなった。  ユピを自分の背後に歩かせて、ヒラクはやぶをかきわけ、踏みしめながら、汗だくになって進んでいった。すね当てはいつのまにかボロボロで、腕にも無数のすり傷ができている。  体重が軽いせいか、やぶを踏みしめても地に足がつかない浮遊感がある。父からは方向だけは見失うなと言われていたが、いまや自分がまっすぐに進んでいるのかどうかすらわからない。不安とあせりで精神的にも体力的にもヒラクは消耗しきっていた。    やがて、やぶの中にぽつんと一本の木が生えているのが見えた。  吹きすさぶ風に(さら)されて、幹も枝も曲がりくねった白樺(しらかば)の木だ。  木までたどりつくと、ヒラクは上までよじ登り、辺り一帯を見渡して、今いる位置を確認した。  延々と続くかに思われた笹やぶはまもなく途切れ、その先はゆるやかな斜面になり前方に尾根が延びている。ハイマツにおおわれた尾根の向こうは次第に岩場が多くなり、緑が少なくなっていく。 「ユピ、もうすぐだよ。あとちょっとで山を越えられる」  ヒラクは憔悴(しょうすい)しきったユピを励ますように大声で叫んだ。ユピは木の上のヒラクを見上げるのがやっとで、もう声も出せないほどに疲れきっていた。。  先が見えたことで安堵(あんど)したヒラクは、山頂の冷たい風に吹かれながら、一面の笹の海を見下ろした。まるで波が打ち寄せるように笹の葉が音をたてて揺れていた。  やがて笹やぶを抜け、低木地帯に入ろうとしていたが、ユピはもう足を前に出すことすらできなくなっていた。  ヒラクはユピの前にかがんで背を向けた。 「ユピ、おぶさって」   その小さな背中をじっと見て、ユピは困ったように笑う。 「無理だよ、ヒラク」 「だいじょうぶだよ。ユピの一人ぐらい軽いって」  ヒラクは明るく笑ってみせるが、顔にはいちじるしい疲労に加え、不安と焦りがにじみ出ている。  その様子にユピはいたたまれなくなった。 「……もういいよ、ヒラク、僕のことはもういい」 「どういうこと?」 「ここからはヒラク一人で行くんだ。君一人なら、山を超えられる」  ユピは静かにきっぱりと言った。 「何言ってるんだよ、そんなのいやだ。ユピを置いていけるもんか」 「だけど僕が一緒だといつまでたっても先へ進めない」 「そんなこと……」  ヒラクは否定できなかった。そして、歩みの遅いユピに対して感じていたわずかな苛立(いらだ)ちを申し訳なく思った。  傾きかけた太陽が山の端をかすめている。 「今のうちに燃やせるものを集めてくる。ユピはここにいて」  気まずい沈黙を破るようにヒラクはすばやくその場から離れようとした。  その時、ヒラクは山に響く遠吠えを聞いた。 「狼だ」  ヒラクは表情をこわばらせた。  遠吠えが四方で呼応し始めた。
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