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 夜になり、辺りは闇に包まれて、木々は形を失った。  ヒラクたちはなんとか笹やぶを抜けて、ハイマツの低木地帯の境までたどり着いた。  ハイマツの枝と枝の隙間に子どもが入れるほどの空間ができている。風よけにはちょうどよく、木に守られる格好で夜を明かすことができそうだったが、狼にみつかればひとたまりもない。  ヒラクは笹とハイマツの境で火をたき、辺りの気配をうかがいながら夜を明かすことにした。  火がはぜる音を聞きながら、ヒラクもユピも黙り込んでいる。  ユピはあきらめたような目で、たき火をぼんやりと見ていた。  けれどもヒラクの瞳に映る炎は生き生きと激しく燃えている。 「……来る」  ヒラクは、笹やぶにひそむ狼の低いうなり声を耳にとらえた。 「ユピ、おれが弓を引いたら白樺の木があった場所まで走って。おれが追いつくまで、振り返らずに全速力で走るんだ」  ヒラクは弓に矢をつがえ、目の前の茂みに向けた。 「ヒラク、無茶だよ。僕を置いて今のうちに逃げて。僕のことはもうあきらめて……」 「あきらめるもんか!」  ヒラクは茂みの一点に狙いを定め、力いっぱい弓をひいた。  矢が放たれた直後、茂みから飛び出した狼が苦痛の声をあげ横転(おうてん)した。 「走って」  その声に(はじ)かれるように、ユピはヒラクに背中を向けて走りだした。  次々と笹の茂みから狼が飛び出してくる。  ヒラクは矢を放ち続けた。  矢がなくなると、ヒラクは弓を背負い、(やり)を手に構えた。  その目でにらみつけているのは、ひときわ体の大きな狼だ。 「おまえが頭か。来い!」  ヒラクが叫ぶと、ひときわ大きな狼は、牙をむき出して飛びかかってきた。  ヒラクは上体を低くして横にかわすと、すぐさま体勢を整えて、全体重をかけるように狼のわき腹に槍を突き刺した。  狼は地面にのた打ち回る。  茂みの向こうにいる他の狼たちの気配が遠ざかっていく。  ほっとしたのも束の間、遠くで再び狼の遠吠えが響き渡った。  ヒラクはすぐにユピの後を追った。  襲いかかってくるような笹の海をかきわけて、ヒラクは走った。 「いたっ」  ヒラクは立ち止まり、痛みを感じた左の二の腕を触った。  ぬるりとした血の感触が手に残る。いつのまにか笹で腕を切りつけられていた。  ヒラクは、闇に息を潜める自然の冷たい敵意のようなものを感じて身震いした。 『……血の臭いに獣たちはすぐ群がってきやがる……』  父イルシカの声が頭に響いた。 『……足を止めるわけには行かねぇ……』  ヒラクは再び走り出した。 『……だが、痛みと焦りが方向を狂わせた……』  ヒラクは再び足を止めた。  ヒラクもまた山で行方知れずになったときのイルシカ同様、いまや完全に方向を見失っていた。  ヒラクは恐怖を感じた。  今までそばにいたユピの存在が、どれほど自分を(ふる)い立たせていたかを思い知った。 「ユピ、どこ? ユピーっ!」 ―ヒラク  誰かが、ヒラクの叫び声に答えた気がした。 「ユピ? ユピなの?」  ヒラクは歩き始めた。  前へ、自分を呼んでいる声が感じられる方へ。  歩き進んだ方向には笹を踏み固めた跡がある。  狼が通った跡なのか、自分が道をつけてきた跡なのかはわからないが、ヒラクはひたすら闇の中を歩き続けた。  時間の感覚もなく、頭の奥がやけにしんとしていた。  踏み出す足は重く、前に進んでいるのかどうかもわからない。  そしてヒラクは闇に浮かぶ銀の狼を見た。  遠くにいた狼が、瞬きのたびに拡大して近づいてくる。  気づけば狼はヒラクの目の前にいた。 「おまえは……あのときの……」  忘れもしない夜の記憶がよみがえる。  目の前にいるのは、母を追いかけた幼い頃、ヒラクが出会った狼だ。 ―乗りなさい  その声が、記憶の中のものか、今聞いたものかはわからない。  それでも背にまたがったヒラクを狼は拒むこともなく、闇の中を疾走(しっそう)した。」
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