第1話 – 渇き

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「ねぇあなた、運命に抗ってみない?」  異形の女はそう言うと手を伸ばして女の頰を伝う涙を上から下へと拭い、唇をなぞった後に白く細い顎に触れる。この一連の動作は実に流麗で美しく、明らかに人間とは出で立ちの違う、褐色肌の女に彼女は見入ってしまう。 「んむっ」  女は突然口を塞がれ、舌先をねじ込まれる。自身の口内で繰り広げられる遊戯に彼女の感覚は徐々に麻痺し、その甘美な刺激が全身を駆け巡る。   「応えるのよ」  異形の女が絡めていた舌を(ほど)いて唇を離すとそれを追うように女の顔が動く。それを異形の女は人差し指で制するとそのままグイッと押し込み、2人の背後に広がる扉たちへと誘導する。それまでずっと鳴り続けていたノック音は忽然と消え、しんとした静けさと闇が合わさって"無"が生み出される。 「さぁ、目を閉じてどの地点に戻りたいかよく考えて」  女は言われた通りに目を閉じ、はかた駅前通りの信号で待つ自分を思い浮かべる。 ––––ドンドン  扉の1つからノック音が鳴り響く。その扉はぼうっと赤く(おぼろ)げに輝き、女はそれに吸い込まれるようにドアノブに手をかける。 「行っておいで。運命はあなたを(から)めとる」  扉を開くと、光をも取り込んでしまうほどの闇。女は導かれるようにその漆黒へと足を踏み入れ、やがて姿を消す。 ––––キキイィィィ  赤信号でありながら猛スピードではかた駅前通りを横断した白いセダン車は1人の若い女性を勢いよく(はじ)きとばし、辺り一面を血の海に染め上げる。 ◆ 「趣味が悪いのね、渇きし者(サースティ)」  渇きし者(サースティ)の褐色の肌とは正反対の真っ白な肌に、それをより際立たせる金色(こんじき)のロングヘア。白いロングワンピースをひらつかせながら渇きし者(サースティ)と双子の少女たちの方へとゆっくりと裸足で近付く。 「先手番は私よ、案内人(グイード)」 「そうだ!」 「そうだ!」  双子も同調し、案内人(グイード)に向かって舌を突き出して挑発する。その様子を笑いながらしばらく見つめた後に渇きし者(サースティ)は呟く。 「ケヒッ……ケヒッ……ケヒヒヒッ……。日本の死人はこの曲を引き合いに出すと簡単にその気になる」 「お姉さま頭いい!」 「お姉さま頭いい!」  渇きし者(サースティ)は双子を自分の胸へと抱き寄せると頭を優しく撫でる。  日本においてベートーヴェンが作曲した交響曲第5番は『運命』という名称で親しまれているが、これは一般的ではなく、また、通称であって正式な命名ではない。
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