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【四】築島の長い夜
希星は、息をひそめて書記長邸に近づく。
隣あう建物より、ひと回り大きな立派な邸の窓からは、明るい光が漏れている。
かすかに、胡弓の音も聞こえてきた。
(月英……どうか無事で!)
蜃海は、馬車を人目のつかないところに隠している。
役人が周辺を固めている今、不用意に動くのは危険だという判断だった。
一歩前に進みかけ――ハッと息を呑む。
邸を、詰まれた箱の陰からうかがう華人がいる。
――着ているのは、裴服だ。
裴服を着て築島で働く華人も、少なくはない。
だが――その顔を、希星は知っていた。
(あれ……秀敬さんだ。なんでここに?)
秀敬は、府軍の役人だ。
清街の街中見廻りも役目の内である。
度々顔をあわせているので、見間違いはしない。
最後に会ったのは、異界門の前で検査をした時。
遠い昔のことのようにも思えるが、間違いなく今日の話だ。
(門の外で会った時は、官服だったのに。……裴服に着替えてる)
人手不足で駆り出されたというようなことを言っていたので、こうしているのも府軍の仕事の一環ではあるはずだ。
変装までして、府軍の役人が様子を探っているということは――ノーゼ書記長の身辺を府軍が探っている、と理解するのが自然だろう。
(厄介なことになる前に、月英を助け出さないと……うっかり媚薬を飲まされてたら、すぐにつかまって――殺される!)
建物に近づくと、胡弓と笛の音が聞こえてくる。
曲は『紅香慕情』。
ノーゼ書記長邸では、まともに後宴が行われていたようだ。
くるくると激しく回り続ける旋舞とは違い、ゆったりと、恋人同士の別れの悲哀を描く舞だ。
紅香遊郭では古くから愛されてきた名曲で、宴席の最後に演じられることが多い。
(……いけない。宴が終わってしまう!)
曲が続いている間は、さすがに仙桃菓を口にはしないだろうが、それが終われば危険は増す。
とにかく、月英が仙桃菓を食べるのだけは、阻止せねばならない。
人生をやり直して三度目。
手に入れたものが二年早い従姉の死だった――などという悲しい結末は見たくない。
今度こそ救う。
絶対に救う。
そう決めたのだから
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