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翌日。
体育で消費した体力を回復するため、四時間目の古典は意識を保つことができなかったが、その他の授業では辛うじて目を開いていることはできた。
「園っち、今日も残るん?」
昼休みに学食で大盛りのカレーライスときつねうどんを並べた吉川に問われ、
「無論、そのつもりだ」
と胸を張った。
「頑張れよ。応援してるわ」
鈴木はどこまでも興味がないようで、恐ろしく棒読みなエールを送った。
放課後、クラスメイトは解放感に満ち溢れた様子で教室から去ってゆく。
ぽつんと一人取り残された園田は今日もあみだくじをノートに作ることから作業を始めた。
「おっ!」
思わず声をあげたのは、運命のようにまた数学を引き当てたからだ。
「昨日の俺より、今日の俺はできるはず」と、何故か無闇な自信をもとに、園田は昨日諦めたばかりのテキストをもう一度開くこととなった。
しかし、そんな紛い物の自信が長続きすることは、やはりない。むしろ、十五分もったのが不思議なくらいだった。
「あぁーーーー……」
絶望を体内から吐き出すように唸りながら、園田は座椅子に背中を預け、身体を反り返らせた。逆さまになった教室。誰もいない、この絶望が誰にも届かない教室。背筋がぐっと伸びて心地良いが、そんなことでは現実は誤魔化せない。だからといってどうすることもできなくて、園田はしばらく誰もいないのをいいことにそのままじっとしていた。
「園田君」
急に声がして、園田はびくりと跳ねた身体の反動で上体を起こした。
そして起こした先に見た声の主に更に驚いてバランスを崩し、危うく椅子から転げ落ちそうになった。
「……え、江国?」
そう問いかけなくても、園田の目の前に立っているのは紛れもなく江国拓朗でしかなかった。
何も言わずに園田を見下ろしている視線、そして二人以外誰もいない教室というシチュエーションに急いで体勢を整えて身構える。
しかし江国は何もしない、と表わすように両手を胸の辺りまで上げ、自分から一歩後ろに引き下がった。
「な、なんやねん…、近づかんって、約束やったやろ?」
それでも警戒を解けない園田は牽制するようにそう言った。
「ごめんっ……なさい…」
慌てて江国も言い訳するみたいに答えてから、もう一歩下がって太股のあたりを他の生徒の机にぶつけた。
「…………」
それから項垂れてしまった江国は何も言わず、園田も言葉を失ってしばらく気まずい沈黙が流れた。
「……何? 何か用か?」
恐る恐る園田がそう聞いて、やっと江国は顔を上げた。
「……あ、あの…、昨日、…昨日も、勉強してるみたいやったから…」
「勉強? あ、あぁ…うん、してるよ。…それが?」
「だから、その、今日も…してるんかな…って…」
勉強していたら何だというのだろう。いまいちはっきりしない江国の意図に園田は困惑する。その困惑が眉間に皺を刻み、表情を曇らせた。それに「昨日も」と言った江国の言葉から、園田の動向がいちいち見られていたのだとわかり、動揺を隠せなかった。
「……で?」
園田は先を促す。
「その、何か手伝われへんかなって…、今も、困ってるみたいやったし…」
ひどく躊躇いがちな江国の申し出。そして確かに困り果てて、猫の手でも借りたい今の状況。
しかし、猫の手はまだ許せるが、江国の手を借りるのはどうしても躊躇してしまう。
「いや、大丈夫…、一人でやるから…」
だから園田はそう断って、江国を遠ざけた。
「そ、そっか…」
俺に近づくな、とまで言われてすぐのこともあって、江国も無理に食い下がろうとはしない。
「じゃ、じゃあ……、ごめん、邪魔して…」
そう言い残すと、そのまま教室を出て行こうとする。
園田はその姿を見送りながら、ほっとする。しかし、ほっとした反面、いや待てよ、と考え込んでしまう自分もいる。
「一人で大丈夫だ」と言った、自分の言葉は果たしてどこまで信用できるものだろうか。
この自信過剰な心が、どうにかなると楽観し続けた代償が、今、園田に降りかかり、絶望の淵へと追い詰められることになっているのではないだろうか。
『園田一人の力では無理や』、と言ったのは鈴木の言葉だ。『神様もしくは救世主の力がいる』と、そう続けたのだ。
教室の引き戸がきちんと閉じられる音にはっとする。
園田はまた一人、この教室という孤島に取り残されてしまったのだ。
『園っち、チャンスやん』
ふいに吉川の笑顔までもが蘇る。彼らの言う通り、園田には「保健室に付き添った」という恩よりも大きな、償うべき罪を江国に課すことができる。
『江国君って、頭ええんやって』
かといって園田に人の罪を裁く資格も権利もない。ならばせめて、それに代わる対価を得たとしてもいいのではないだろうか。
救世主。確かに江国はそれに成り得る力を持っているのだろう。
しかし、と園田は思う。
彼は同時に悪魔にも成り得る。
チャンスを掴め、と動きだそうとする身体が、またあの日の金縛りを思い出してすくみ、椅子に縛り付けられる。
人のいなくなった廊下を歩き去る江国の足音が聞こえる。それが少しずつ、少しずつ遠ざかって小さくなってゆく。
「どうする……?」
園田は口に出してそう言ってみる。
誰もいない教室では、問いかける相手は自分しかいない。
どうする?
心の中でもう一度呟いてみる。
そして、いくら考えても答えの出ない問答を繰り返すのはやめて、後は自分の思うがままにしてみようと思った。
その次の瞬間、園田の手は、机の上に開いた数学のテキストを掴んでいた。
椅子を倒しながら立ち上がり、全速力で駆け出した。
教室を出て廊下を見渡しても、江国の影はない。足音の向かった先へと園田は当てもなく足を動かした。階段をとばして駆け下り、身体が向かおうとするのに、ただ従った。
一階まで来ると、また廊下を走った。ちらほらと現れた生徒たちの間を縫って、それでも必死に江国を探した。そして下足室まで来たところでようやく見覚えのある後ろ姿を発見し、
「江国っ!」
そう叫んだ。
驚いて振り返った江国は、数学のテキストを握りしめながら、肩を弾ませて息をしている園田を見た。園田はしばらくその距離を保ったまま呼吸を整えていたけれど、やっと喋れるくらいの余裕を取り戻すと、江国の方へとゆっくり歩み寄った。
「……どないしたん、園田君」
目の前に立った園田を呆気にとられながら江国は眺めている。
そんな江国に対して、園田は手に持っていたテキストのページを適当に開き、また適当な問題を指差して、それを顔の真ん前まで突き出した。
またもや驚かされた江国は仰け反りながらも、園田の指差す問題を律儀に読もうとした。けれど、それを遮るように園田が口を挟む。
「この問題っ」
「えっ?」
「この問題の解き方をっ、……教えてくれっ!」
まるで怒っているかのような園田の物言いに気圧されて、江国は瞬間返答に詰まったけれど、それはどうやら自分の申し出を受け入れ、尚且つ側に寄ってもいいと許されたような気がして、一気に戸惑いが晴れて、笑みがこぼれた。
「……うん」
そして大袈裟に頷いて、園田の頼みを勿論断ることなく了承した。
園田は園田で、江国のもとに辿り着くまでに力の全てを使い果たしたような気持ちになって、危うくその場にへたりこみそうになるのをなんとか堪えた。
それから筆記用具などを置きっ放してある教室に、とにかく江国と連れだって向かいながら、本当にこれでよかっただろうかなどと考え、やはり江国から微妙な距離をとりつつ、「絶対に進級してやる」と心新たな誓いを密かにたてた。
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