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 まるで異国の言葉を日本語に翻訳してくれているみたいだ。  江国が懇切丁寧に問題の解き方を教えてくれている時、園田はそう思った。言葉で、時には簡単な絵で図解を交えながら、江国は問題を解き進めた。  そして江国が最後まで解説を終えた時、何年ぶりかの――もしかしたら初めての――「わかった」という物事を理解する喜びが園田の中で湧き上がった。  自分は今、何を問われていて、何を答えるべきなのか、その道筋を江国は園田に示した。迷子のようになっていた園田は、江国にただ手を引かれるがままについてゆき、そして気が付けば出口に辿り着いていた。 「じゃあ……、これは?」  一問解き終わると、園田は別の問題を指差して躊躇いがちに江国に問いかけた。江国は面倒くさがることなく当たり前のように園田を先導し、鬱蒼と生い茂った深い森を難なく攻略した後に、日差しの当たる場所までするすると案内してみせた。  すごい。…わかる。わかるぞ。  果てしない未知の世界をめくるめくスピードで見せられているような感覚に園田は浮かされ、気が付けば興奮しながら「じゃあこれは? 次はこれ。あれはどうだ?」と矢継ぎ早に江国を質問攻めにしていた。  はっと我に返ったのは、昨日と同じく教師が施錠のため教室を訪れた時だった。寝ていたわけでもないのに、いつの間にそんな時間が経っていたのかと驚かされる。 「悪いな、なんか……、こんな時間まで付き合わせて…」  机の上を片付けながら、園田は江国にばつが悪そうに謝った。「俺に近づくな」とか、「一人で大丈夫」だとか散々豪語した挙げ句、こんな時間まで江国を引き留めてしまっている自分に戸惑う。  それでも江国は、そんな園田に文句の一つも言わず、微かに首を振り、「構わへんよ」と笑みさえ浮かべた。  教室を後にし、廊下を隣り合って歩いている時、言葉を交わすこともなかったけれど、不思議と気まずさはなかった。  園田はこの二時間ほどのことを思い返し、確かに今日、身についたと思われる知識について考えていた。昨日までのことを考えたら、これは確実に進歩だ。しかし、その一歩は果てしなく小さい。自分が目指すべき「進級」という目標に辿り着くまでには途方もない距離があることをその歩幅と照らし合わせてようやく理解することができ、そして愕然とした。  このままでは、やはり間に合わないだろう。園田にはやるべきことが多すぎる。今まで何を悠長に構えていたのかと、昨日までの自分を恨む。しかし恨んだところで昨日までの自分は何をしてくれるわけでもない。とにかくやっと遙か遠くに見えた「進級」という目標に向かって一歩でも多く歩まねばならない。振り返っている場合ではない。前を向き、這いつくばってでも進まなければ。  でも、一人では…。一人では、無理だ。途方もない旅を一人で乗り越えることは…。 「……なぁ、江国」  下足で靴を履き替え、校門に向かって歩いている時、ずっと噤んでいた口を園田は開いた。歩くのは止めずに、できるだけ顔を見ないようにしていると、江国の視線が園田の横顔を捉えているのがわかった。 「あのさ、もしよかったら、の話やねんけど…」  口ごもる園田に江国は急かすことなく耳を傾けていた。 「もし、よかったらさ、……明日からも、勉強、教えてくれへん?」  園田は、何と身勝手なんだろうと自身への嫌悪感に胸がざわついた。拒絶した相手に向かって、次は助けを求めている。そんな自分が恥ずかしくて、言葉にした瞬間、冬だというのにかっと身体が火照った。 「……ええの?」 「え?」 「僕で、……ええの?」  ちらりと園田が横目で窺うと、戸惑った江国が目を伏せていた。「僕でいいのか」という言葉は暗に、「あんなことをしでかした僕でいいのか?」と確かめているのだろうと園田は思った。 そう改めて問われると、確かに躊躇う気持ちはなくもない。しかし、そう問いかける江国の姿からは、あの日のことを悔やんでいるのだという気持ちが伝わってきて、その意識があるのならば、少しは江国のことを信用してもいいのではないかと思えた。 「うん。……頼むわ」  江国の顔が上がった。まだ探るようにこちらを見ていた目と、園田がやっと視線を合わせると、江国も安堵したように微笑んで、「わかった」と答えた。
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