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「江国拓朗と喋ったことある奴、挙手」
園田正文がクラスメイトである鈴木と吉川にそう尋ねたのは、学校から最寄り駅の高架下にあるファストフード店でのことである。
「誰やねん。…戦国武将?」
と鈴木がスマホの画面を見たまま問い返し、
「きょしゅって何?」
と吉川がポテトフライを一本摘まんでから口に運んだ。
クリスマスも正月も、もはや過去となった一月の中頃。三人はセパレート可能なテーブルを二つくっつけて、ちらほらと客の入った店内の隅に陣取っている。
「そうやんな、知らんよな」
園田は鈴木の問いにだけ反応し、吉川の言葉を流していると、吉川は「なぁ、だから、きょしゅって何なん?」としつこく食い下がった。
「知らんわ。帰っておかんにでも聞け」
冷たくあしらいながら、園田は紙コップを手に取り、百円で購入したコーヒーを一口含む。価格の割に味はそれなりだ。
「……で、誰なん? えくに…何やっけ?」
スマホをブレザーのポケットにしまってから鈴木が顔を上げる。
「江国拓朗。一応、俺らのクラスの奴やねんけど」
鈴木の眉間に皺が寄る。思い出そうとしてるのか視線はあさっての方向に向けられている。
「ほら、眼鏡といつもマスクかけたさ…、絶対貧血やんっていう顔色した、目立たへん…」
クイズのヒントを与えるように、園田は鈴木に対して江国の特徴について説明する。吉川は「挙手」という言葉への関心もすでに無くしたのか――はたまたすでに忘れ去ったのか――、一定のテンポでポテトフライを食べ進め、二人のやり取りをぼんやり眺めていた。
「……あぁ、わかったわかった。なんとなくやけど、おるな。確かにそんな奴」
ぱっと閃いたように眉間の皺が伸び、鈴木の視線が園田の方へと戻ってくる。園田は鈴木が思い出してくれただけで満足してしまい、「で、その江国が何なん?」と鈴木が聞かなければ、きっと話の本題を忘れて、今頃吉川のポテトフライを一本失敬していたところだっただろう。
「いや、あのさ、俺も別に江国と親しいわけでもないし、それどころか喋ったこともないねんけど、俺、どうやら江国にめっちゃ嫌われてるみたいやねんやんか」
「ふーん……、でも、なんで?」
呑気に口の中のじゃが芋を咀嚼しながら吉川が言う。その理由を聞きたいのは園田の方だった。いつも吉川は話の流れや意図を読まない。それに慣れた今では園田も苛立つことはない。
「なんで江国が園田のこと嫌ってるって思うん? 何かあったんか?」
鈴木はそう聞きながらも、本当はそんなことに興味はないのだ、という風に見える。冷めたところがあるのはいつものことだから、園田はそれも気にしない。
園田が江国の目立たない存在に気が付いたのは、遡ること二ヵ月前。
最初は「視線」だった。学校、特に教室にいる時にどこかから感じる、見られているという気配。その元を探った先に、彼、江国拓朗はいた。
目が合うと、ふいに向こうから逸らす瞳。偶然かと思いきや、それは日を追うごとに頻度を増し、確かに江国が自分を見ているという確信を園田は得ることとなった。
だからといって「何見てんねん」と絡んでいくのもなんだったので、不思議には思いながらも園田はそれを無視することでやり過ごしていた。同じクラスとはいえ、その時まで存在さえも忘れかけていた江国に対して何か行動を起こす必要性は感じなかったし、それは江国も同じようだった。
そうしている間に「見られている」という意識も徐々に薄らいでゆき、冬休みに入った。その頃にはまた江国の名前を頭の片隅にまで追いやり、元々喋ったことのないクラスメイトのことなど思い出さなくなっていた。
だから「江国拓朗」という存在や名前について、園田が思い出したのは、鈴木と同じく今日のことである。
完全に気が抜けていたところに、覚えのある視線を感じ、園田は何となくそちらを振り向いてしまった。
やはりその先にいた江国に対して、「またお前か」と呑気にしていられたのは一瞬のことだった。
江国の姿を捉えた瞬間――江国の目と視線を重ねた瞬間――、人生で感じたことのない戦慄が園田の身体を駆け抜けた。
鳥肌がたち、思わずぶるりと震え、しかし恐ろしさのあまり目が離せなくなった。急な動悸が胸をうちつけ、口の中の水分が蒸発し、喉が凄まじい速さで渇いた。
この世のすべてを憎悪しているかのような瞳。
その瞳で江国は園田を捉え続けていた。見ているというよりは睨みつけている。決して獲物を逃がさない獣の獰猛さと鋭さで園田は射貫かれていた。
やっと視線を反らした園田は、それでも尚、胸を打ちつけている鼓動を感じながら、必死に動揺をおさめなければならなかった。
それが授業中の出来事でなければ、その場からすぐに逃げ出していたことだろう。
さすがに「なんでそんな目で俺のことを見ているんだ」と江国に問いたかったけれど、そんなことすら許されないだろうプレッシャーに、また前のように無視を決め込み、それに加えて距離もとりながら、今、こうして放課後を迎えるしかなかった。
園田はそんな事件の概要を一通り鈴木――一応、吉川にも――話し終えると、またカップからコーヒーを一口啜った。店内は暖房が効いているけれど、さすがにぬるくなっていた。
「へぇ……、そら怖いな」
そう感想を述べたのは鈴木だ。本当にそう思っているのか? と園田は疑問に思ったけれど、またそれも気にしないことにした。
「なぁ、ほんまに俺、江国に対して何かした覚えがないねんけど、なんやと思う? なんで江国はあんな怒ってんの?」
本人にも聞けない。だからといって、さっきまで江国の存在を忘れていた鈴木がそれを知っているわけはないし、コーラを飲み干したにも関わらず、往生際悪くストローで最後の一滴まで吸い出そうと音をたてている吉川に至っては戦力外だ。
「……前世からの因縁か。転生する前は天下統一をかけて覇を争っていた、とか?」
しばらく小首を傾げながら、考えついた鈴木の解答がそれである。最近ダウンロードしたというスマホのゲームに影響されすぎている。
あまり期待せずに、園田が吉川を見やると、
「うーん……、難しくて、オレにはようわからんな」
と朗らかに言い放った。それは江国が怒っている理由というよりは、もはや今話し合われている議題を吉川は見失っているように思えた。
大きくため息を吐きながら、園田は肩を落とした。最初からこの場に解決を求めてはいなかったけれど、それにしても報われない現状に泣きたくなる。
「なんか園っち、三学期にはいってから不幸続きやな」
その様子を見て吉川は言うけれど、その声音には他人の不幸を悲しんだり、慰めようとする気配は微塵も感じられない。遂にはカップの中の氷を噛み砕き始める。
「春には俺、園田から『鈴木先輩』って呼ばれることになるんかな」
鈴木は茶化したりせず、真顔で園田にそうぽつりと漏らす。園田はそんな鈴木を軽く睨みつけながら、背中にはじっとりと嫌な汗をかく。
三学期の初日は始業式があり、全校生徒が体育館に集められ、短いホームルームのあとはすぐに放課となった。
そうなれば長居する理由も見当たらない園田は嬉々として、いつものように鈴木、吉川を伴い教室を後にしようとしたが、その背中を担任に呼び止められ、「職員室に来なさい」と連行されるはめになった。
おおよそ全くといっていいほどに手をつけなかった休業中に課された宿題と、再三の呼び出しを無視して赴かなかった補習についてだろうと見当はついていたけれど、職員室のデスクに腰をおろした担任はそれらについて叱るでもなく、むしろ園田を哀れむように一瞥し、「留年」という言葉を口にした。
「園田、お前はこのままいくと二年生になれないだろう」と。
担任の言うことはすぐに理解できたけれど、それが自分の中で実感として湧かず、園田は「はぁ…」と気の抜けた返事を返すだけだった。
そんな園田の態度に担任は一層憐憫を色濃くさせながら、園田が全くもって把握しきれていない自分の現状について、わかりやすく、懇切丁寧に説明してくれた。
高校入学と同時に、それまで受験生として張り詰めていた糸――とはいっても、一日三十分もつかもたないかの集中力――が切れ、浮かれることはなくても、恐ろしく怠惰な日々を過ごしてきた園田の成績は、大地がえぐれる程に沈み、このままでは二月に行われる学年末の試験で奇跡的な成績を修めなければ、進級は難しいとのことだった。
職員室を出た園田は、それでも「昼飯は何を食べようか」などと呑気なことを考えていたのだが、待ってくれていた鈴木、吉川と合流し、今と同じファストフード店にて昼食をとりながら、そんな担任とのやり取りを何気なく話して聞かせると、
「それ、やばくないか」
と、あっけらかんとしている園田に対して青ざめた鈴木を見て、ようやく、
「え、マジで?」
と、焦りをみせた。
いつも呑気な構えをとるのは吉川の専売特許だと思っていたのに、そんな時に限って悲愴な表情を浮かべる吉川に、園田はやっと慌てふためくことができた。
「なんで俺だけ? お前らだって遊び呆けてたやんけ!」
狼狽えながら捲し立てる園田をきょとんと見つめた二人の顔を、今でも園田ははっきりと思い出すことができる。
「いや、俺らはやるべきことはやってたから…」
そして残酷にも、突き放すように飛び出した鈴木の一言にとどめを刺され、園田は掌を裏返したような裏切りに打ちのめされたのである。しかし、二人に全く非はなく、「それでは悪いのは誰か?」と自問自答すれば、それは勿論、怠けられるだけ怠けきった園田自身の責任に他ならないのだった。
「なんとかしてくれ! 助けてくれ!」と、あの時の園田も二人に泣きついたけれど、鈴木にしても、吉川にしても、持って生まれた学力自体は園田とそう変わりなく、手を差し伸べ、奇跡へと導く力は持ちあわせていなかった。
そして絶望の中を彷徨うことになった園田だったが、立ち直る力だけは人一倍あり、難なくそこから抜け出すと、今日もこうして貴重な学習時間であるはずの放課後を無益に浪費しているのだ。
勉強しようという気こそあれど、勉強する習慣自体がない園田はどのように学習すればいいのか、自分は何を学べばいいのかということがわかっていない。
だからせめて授業くらいは集中しようと奇異な意気込みをもとに――居眠りはせず、ノートの隅への落書きを禁じて――今日も臨んだのだが、授業中に展開される言語や板書は、まるで異世界の出来事のようで到底理解できず、ふと集中が途切れた瞬間、泳いだ視線の先に江国の瞳を見てしまったのである。
授業に集中したい、授業についていけない、江国に睨まれている、更に集中力をなくす、自分一人では勉強できない、鈴木も吉川もあてにならない、とりあえずカップを傾けて冷め始めたコーヒーの最後の一口を飲み干す、そして時間だけが過ぎ去り何の解決もしない。
負の連鎖により、園田はどんどん追い詰められてゆく。吉川の言う通り、三学期にはいってからというもの、悪いことが立て続けに起こる。
これはまだ序の口で、この先更なる不幸が待っているのではないかという不気味な予感さえして、せめて何か行動を起こさねばと思った園田は空になったカップを軽く握りつぶしてから、ファストフード店を重い足取りで後にする。
「じゃあな」
駅からはバスに乗る鈴木と、自転車通学の吉川とは店の前でわかれた。園田は電車に乗るため改札に向かって歩き出しながら、ふいに吹いた強い風に、ぶるりと身体を震わせる。
冬の日暮れは早い。いつの間にか、すっかり街は夜の色に染まっていた。
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