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グラウンドに向かって歩きながら、園田は学校指定の体操着とジャージの薄さを恨めしく思う。
ポケットに両手を突っ込み、身を固く強張らせても、尚、耐えがたい寒さに舌打ちをすると、それが合図になったかのように隣に並んで歩く鈴木が大きくくしゃみをした。
冬の体育恒例の持久走が始まったことにより心まで冷え込む。「好きな教科は体育です」とはしゃいでいる、吉川の「正気か?」と問い詰めたくなるような熱量を、薪にして暖炉にくべてしまいたい。
三限目開始のチャイムで二クラス分の男共が背の順の四列横隊で整列する。高くも低くもない身長の園田はちょうど列の真ん中、最前列に立つことになる。
目の前に暑苦しい体育の教師が立つことにより、自分の冷え切った体と心が浮き彫りになる。
「準備体操っ! はじめっ!」
号令に合わせて適当に手を振り、足を動かし、体を揺らしておく。園田から見て右方は自分より背の高い生徒が並んでいるが、その中に吉川の姿を捉え、張り切って直角的な動きをみせている彼に愕然とする。
そちらに気をとられている間に、逆に左方から地面に何かが叩きつけられたような鈍い音が聞こえた。
何となしに首だけひねってそちらを窺うと、惰性で準備体操を続ける者と、音のした辺りを囲む何人かの生徒、その隙間から誰か倒れているのが見えた。
次第にみな異変に気がつき、波のように体操をする手が止まり、「何だ何だ」と人の輪ができている中心部に向かって注目が集まり始める。
「何だっ! どうしたっ!」
こんな時まで暑苦しい体育の教師が輪の中心に向かって声を張り上げる。
「先生―。なんか急に江国君が倒れたんすけどー」
「何っ?」
テンションが全く噛み合っていないやり取り。そんなことにはお構いなしに、園田の胸は急に発せられた「江国」という名前に大きく鳴った。
体育教師は江国を中心としてできあがった生徒の輪をかいくぐりながら駆けてゆく。いつもなら目も合わせないようにし、距離もおいている園田だが、準備体操くらいで倒れるほどに弱っている江国になら近づけるのではないか、といらぬ考えが頭の中をよぎった。
野次馬に紛れ込みながら、園田も体育教師が切り開いた道を辿って、怖い物見たさで江国に接近を試みる。
「おいっ! 大丈夫かっ? 江国っ! しっかりせんかっ!」
輪の一番中側まで入り込んだ園田は、体育教師に抱き起こされ、体を揺さぶられている江国を目にする。そんなことされたら余計に具合が悪くなるんじゃないか、とうんざりしながら様子を窺っていると江国が意識を取り戻した。
「……大丈…夫、です」
辛うじて絞り出したような声は、とても大丈夫そうには聞こえない。いつも通りのマスクと眼鏡の間に露出している顔色は青を通り越して黒に近い。「まるでゾンビみたいやな」と園田は心の中で静かに独り言ちた。
しばらくぼんやりとそんな江国を見ていると、急に顔を上げた――それは物凄い勢いで――体育教師とふいに目が合う。
園田は咄嗟に顔を背けたけれど、もはや手遅れだった。
「園田っ!」
距離感を計り損ねている大音量の声で名前を呼ばれた瞬間に嫌な予感が全身を駆け巡った。
聞こえていないはずなどないのに、園田は必死に聞こえなかった振りをしていたが、無駄な抵抗だった。
「江国を保健室まで連れて行ってくれっ!」
ほら、園田君、呼ばれていますよ、と園田はあたりを見渡してみたけれど、まわりの視線が一斉に自分に向けられていることに気が付き、いくら探したところで自分以外、園田という人間はいないのだと思い知らされる。
「……なんで、俺なんすか?」
江国の方に渋々歩み寄りながら、園田は往生際悪く愚痴をこぼした。
「それは、お前が一番心配そうに、江国のことを覗き込んでいたからだっ!」
盛大な勘違いに園田は顔面が引き攣るのを感じる。むしろ「顔色がゾンビみたい」と茶化していた園田は心配の「し」の字もしていなかった。
「……先生、大丈夫、です。一人で行けます…から…」
江国が生まれたての子鹿のように震えながら立ち上がろうとする。
「て、言ってますけど?」
更なる抵抗を続ける園田だったが、歩き出そうとした江国がよろけて、危うくまた転倒しそうになる。
その様子を見ていた男共から「お前はこんなに弱っている奴を一人にする気か」と無言の圧力をかけられて、園田の背中を冷たい汗が一筋伝う。
「それならお前らが行けよっ!」と言い返したかったけれど、それを遮るように、
「頼んだぞっ! 園田っ!」
と、もう一度体育教師から念を押されてしまい、天を仰いだ園田だったが、助けてくれる神様も見当たらず、仕方なく江国に付き添うことになった。
「ごめん、なさい…迷惑、かけて…」
集団から離れながら、俯いたまま江国がぼそりと謝罪を口にする。
「……別に」
微妙な距離を取りつつ江国の隣を歩きながら、決して目を合わせないように園田はぼそりと呟き返した。
後ろを振り返ると、遠くに鈴木が立っている姿が見え、園田に向かって親指をぐっと突き上げていた。
「グッドラック」
幸運を祈るくらいなら代わってくれ、と園田が伝えるためには二人の距離は離れすぎていた。ちっ、と誰にも聞こえないように園田はその隔たりに舌打ちをする。
何事もなかったかのように、授業は再開されている。これで持久走は免除されるかもという淡い期待だけが園田の心を慰めた。
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