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「とにかく保健室」と何度も頭の中で繰り返しながら、園田は足を動かし続ける。校舎に入り、授業中で誰もいない静かな廊下を足早に歩いて行くと、足音が妙にくっきりと響いた。
ふと、その足音が足りないことに園田は気が付いて隣を見たけれど、距離はとりつつも、横目で窺えるところにいたはずの江国の姿がなかった。
園田は慌てて立ち止まり、後ろを振り返る。すると今歩いてきた廊下の先にうずくまっている江国を見つけた。
「……大丈夫か?」
駆け寄った園田の声に、江国は無言で小さく何度か頷いた。声を出す余裕さえないのかもしれない。
しばらくじっと見守るように傍らに立っていたけれど、どうやら立ち上がりそうな気配のない江国を見て、園田は「さて、どうしたものか」と思案した。すると「とにかく保健室」と、さっきまで頭の中で繰り返していた言葉が蘇り、仕方がないと小さくため息を吐いてから、江国に背中を向けてしゃがみこんだ。
「ほら、乗れよ」
園田は江国が覆い被さってくるのを待ったけれど、いつまで経ってもその背中に重さがやってこない。
焦れた園田が江国を顔だけで振り向くと、さっきまでと同じ姿勢のまま、弱々しく首を横に振っているのが見えた。
「歩かれへんほどつらいんやろ? 今やったら誰も見てへんし、俺も構わへんから」
園田だって好きでそんなことをするのではない。できるだけ早く厄介事を片付けてしまいたいだけだ。なのに、園田の言葉に江国はただ首を振るだけだった。
「ほな、どうすんねん?」
苛立ちを隠せずに、次は江国にも聞こえるように園田は舌打ちをする。
江国はそれにやはり何も言い返すことはせずに、遂には這うように廊下に身を引き摺りながら保健室の方へと向かって、ゆっくりと進み出した。
我慢の限界だ。
園田は勝手にすればいいと、そんな江国を呆れ果てた様子で見送りながら、やがて立ち上がり、江国を置いてグラウンドにさっさと戻ることにした。
しかし、どうしても気になってしまい、また江国の方を振り返ってしまったのがよくなかった。
廊下をなめくじみたいにのろのろと進む江国の姿を見て、園田にもほんの僅かにある良心が痛み、行ったり来たりしている道をまた戻ることになった。
そっちが勝手をするなら、こっちもそうさせてもらう。
あっという間に追いついた園田は、無理矢理に江国の左腕をとって自分の首から肩にかけると、力任せにその体を引き上げた。
「あ、あかん…っ! 僕に、近づいたら…っ!」
驚きのあまり目を見開いた江国が、園田から離れようともがいたけれど、病人の力のない抵抗などびくともしなかった。
「うるさい。じたばたする力があるんやったら、しっかり歩け」
園田は右手で江国の肩まで掴んで、しっかりと江国の体を支えると歩き出す。思った以上に軽く頼りのない重さに、少しだけバランスを崩しそうになる。
「や、やめ…て…」
「あー、うるさいうるさい。やめへんわ。俺ははよ用事済まして戻りたいねん」
「僕に、近づいたら、あかん…っ!」
「大丈夫や、別に風邪くらいうつされても構わへんわ。むしろ学校休めてラッキーやし」
「ちゃ、ちゃう、そうや…なくて…」
「じゃあ、なんやねん?」
「におい…、匂い、が…」
「匂い?」
園田は自分の胸のあたりを嗅いでみる。幸いにも洗濯したばかりで、ほのかに洗剤の香りがするだけだ。
もし仮に園田の汗臭さに江国が耐えられないのだとしても、四の五の言われる筋合いもないか、と園田は思い直す。
「あほなこと言ってんと、とにかく保健室や。そこまで歩くことだけ考えて、あとは黙っとけ」
有無を言わさぬ園田の物言いに、江国もやっと諦めたのかおとなしくなる。遠慮がちに園田に寄りかかりながら俯き、消え入りそうな足取りでなんとか歩いた。歯を食いしばって何かに耐えるような顔は、体調の悪さをぐっと堪えているように見えた。
保健室の前まで辿り着くと、園田はノックするのも面倒でそのまま引き戸を開く。
「すんません、先生、急患です」
冗談めかして室内に声をかけたけれど、それに答えてくれる人は誰もおらず、めずらしく仮病をつかって授業をサボり、ベッドで惰眠を貪る生徒の姿さえもなかった。
「あれ、保健の先生どこいってん。職場放棄か?」
江国のことをあとは任せてしまう腹積もりでいたのにと、園田は肩透かしをくらって、ぼんやりと無人の保健室を見渡した。
背負った江国をその場に放り出すこともできず、「とにかく保健室」を「とにかく安静」に切り替えて、ベッドまで運んでやる。
「まぁ、とにかく寝てろよ。先生らには言うといたるし」
誘導されるがままに逆らうことなくベッドに横になった江国を見下ろしながら、園田は言う。ついでに間仕切りのカーテンを引いてやる親切までしてやれば、もう自分の役目は終えただろうと一息つける。
「じゃあ…」
園田は最後にそう一声かけると、決して急いだ様子は悟られぬように、いそいそとカーテンの外へと出ようとする。
「ありがとう…」
その背中にか細く、でも確かに感謝の気持ちが伝えられた。ちらりと園田が振り返ると、同じく園田を見ていた江国と目が合った。
瞬間、どきりと胸が跳ねたけれど、その瞳にはあの日のような園田を脅かす憎悪は微塵もなく、やっと身を横たえることのできた安堵に少しだけ安らいだ表情を浮かべる江国がいるだけだった。
「……お大事に」
園田がそう返すと、江国は黙って小さく頷いてから目を閉じた。それを見届けてからも、さっきまで慌てて保健室から出ようとしていたはずなのに、何となく園田の足は止まったままになった。
横になる時に、江国は眼鏡とマスクを外して枕元に置いた。目が合わないようにと視線を背け続けていた園田は、そういえば江国の顔をちゃんと見る機会なんて今までなかったな、とどうでもいいことを考えてしまった。
「あのさ…」
そんなことを考えていると、無意識に声をかけていた自分にはっとする。折角閉じたばかりの江国の瞼が開き、園田を見た。
「いや、あの…」
意識が朦朧としているのか、夢心地な焦点を結ばない江国の瞳が不思議そうに園田を見ている。焦りも伴って、園田は自分が何を言おうとしたのかを忘れ、必死に言葉を探した。
「えっと…、その…、江国ってさ」
江国は完全に醒めていないのか、ぼんやりとした様子でいる。今ならば何を聞いても、はぐらかせそうな気がした園田は、思い切って聞いてみたかったことを口にした。
「俺のこと、嫌いなん?」
そう園田が言った瞬間に、江国の瞳がかっと見開かれた。咄嗟に園田は目を逸らし、なんで自分はこんなことを聞いてしまったのかと、猛烈な後悔に襲われて嫌な汗を全身にかいた。
「いやいや、ちゃうねん! ごめん!」
園田はなんとか誤魔化そうと焦った挙げ句に、何故か謝ってしまった。
「あの、さっきも俺に近づいてほしくないって言うてたし…っ、その、この間も、なんか俺のこと睨んで、なかった…かなぁって…」
言い繕おうとする程に墓穴を掘ってゆく羽目になる。それに気が付いた瞬間になんとか口を噤むことができたけれど、時既に遅しといった感じで、一気に気まずい空気が二人を包み込む。
「……ごめん、なさい」
その空気の圧力に押し潰されたような声で江国も園田に詫びる。
「いや、えっと…」
それ以上、言葉を持たなかった二人は黙り込んでしまい、重い、重すぎる沈黙が降りた。
「……もう、見ないから」
その沈黙を破ったのは意外にも江国の方だった。
「もう見ないから、許して、ください…僕は、もうすぐ、死ぬから…」
「は? 死ぬ?」
突然江国から発せられた「死」という突拍子のない言葉に、園田は「体調が悪いくらいで、何を大袈裟な」と顔を上げたけれど、目の前にいる少年は、確かにたった今、絶命してもおかしくないくらいに弱々しく、儚げに映る。
「だから、許して…僕を…、こんな僕…を…」
最後の方は声にならなかった。
「ゆる…し…う…うぅ……ぅぅうああああぁっ!」
そして突然呻き声をあげた江国に、園田は体をびくりと揺らし、身をすくみ上がらせた。江国は胸の辺りを掴み、苦しげにもがき始める。
「な、なんやねん、急に? どないしてん、おい、大丈夫か…?」
園田が歩み寄ろうとした瞬間に、
「あかんっ!」
と、江国がそれを押しとどめようとする強い拒絶の声をあげ、園田は一歩前に踏み出していた足につんのめった。
「あか…ん、近寄ったら、あかん! 逃げ、て…っ!」
「逃げてって…何をそんな…」
尚も辛そうに唸る江国を放ってはおけず、かといって急な事態に頭が真っ白になった園田は、何も考えずに忠告を無視し、やはり江国の側まで近づき、苦しげな顔を覗き込んでしまった。
「近寄るなっ!」
その瞬間、怒声とともに固く閉ざしていた江国の瞼が開く。そこにあるのは紛れもなく、あの日、園田を射貫いていた冷酷で憎悪に充ち満ちた瞳だ。
身の毛がよだち、鳥肌がたつ。人生で味わったことのない恐怖が瞬く間に全身を駆け巡った。
そういった状況下での人間としての本能で、頭では咄嗟に逃げようとする動きを身体に伝達している。しかし、身体はそれに応えようとしない、応えることができないのだ。
金縛り。これも人生で初めての経験だったが、園田はこれがそうなのだと瞬時に理解する。江国から目を逸らすどころか、指先一つ満足に動かすことができない。しかし意識ははっきりとしていて、この状況を、この恐怖を把握し続けている。
ゆっくりと、スローモーションで再生されているかのように江国が上体を起こす。園田はただひたすらに、その緩慢な動きを目だけで追っている。
身体を完全に起こした江国はだらりと力の抜けた両腕を少しずつ園田に向けて伸ばし始めた。「まるでゾンビや」と、また園田は声を出すこともできない中で、そのおぞましい光景を心の中でだけ言い表す。
やがて江国の両手が園田の脇腹の辺りに着地した。その感触はジャージの上からでも妙にリアルに伝わってくる。
そのまま手は園田の身体の線に沿い、丁寧に輪郭をなぞりながら下降してゆく。それは廊下を這っていた江国のなめくじのような動きを園田に思い出させた。
何を目的として動いているのか、園田には検討もつかない。じっとその場に立ち尽くし、緊張と不安で荒くなった呼吸を繰り返す。
手が動きを止めたのは園田の太股の辺りだ。しかし止まった、と感じる暇さえ与えてはくれなかった。今までとてつもなく緩やかで頼りなかった手付きが嘘だったかのように豹変し、ジャージのズボンを強く掴まれたのを目視した時には、下に履いていたハーフパンツや下着ごと乱暴に引き摺り下ろされていた。
「あっ!」と園田は驚きのままに声をあげたけれど、それは空気を震わせることはなく、音にならなかった。
突然衣服を剥ぎ取られ、自分だけでなく、江国の目の前で露わになった下半身。空気が触れて異様にひやりとし、そこが露呈しているのだということが強調されているようだった。
咄嗟に手で庇うこともできずに、無防備に晒されてしまった性器は、怯えも隠さずに縮みあがっている。
園田は羞恥のあまり血液が突沸して、勢いよく頭に流れ込み、軽い目眩を感じた。せめてもの抵抗として、園田は非難を込めて江国を睨みつけてみたけれど、肝心の江国の目はこちらを見ることもなく、一身に園田の下半身へと向けられている。
こんな辱めを与えて何になるのか、と訳もわからず混乱している園田に、江国は重い身体を
引き摺るようにして接近を試みる。ずりずりと少しずつ向かってくる江国を避けることも、後退ることもできずに園田はその様を見下ろしながら乾いた喉に唾を流し込んだ。
ベッドから大きく身を乗り出すと、体重を支えきれなくなった江国は重力に負けて、園田とベッドの間にあった僅かな隙間に落ちた。固い床と江国の身体がぶつかって嫌な音がする。
園田のすぐ目の前に崩れ落ちた江国の顔が再び上がる。その瞳は園田の股間だけを映している。また緩やかに動き出した手が園田のふくらはぎから太股へ、そして裸になった尻へと順番に撫で上げる。
手の動きに合わせて怠く重たげな身体も一緒に起き上がってゆく。気が付けばひざまづいた江国の顔は園田の腰のあたりにある。江国の吐いた息が性器にかかって、その異様な荒さを園田に伝えた。どうにかしてそれを避けたいと思っているのに、園田は身じろぎ一つできないで、恐怖と怒り、不安と焦り、様々な負の感情が徐々に自分を支配してゆくのを感じた。
まじまじと園田を見る江国と、それを見ている園田。全く理解も許容もできない不安定な構図。その不安定さの隙をつくように、江国が突如、大きく口を開いた。
江国の口腔内は肌の色とは違い、赤々としていて、豊潤な唾液で濡れそぼっている。
「噛まれる」と園田は思った。江国はどこか身体の一部に喰らいつき、園田の肉を食い千切るのだと。そんな訳あるはずがないのに、今の江国のただならぬ様子が、園田に恐ろしく残虐な光景を想像させる。
園田は次にくるだろう痛みが頭に浮かび、恐怖に耐えかねて固く目を瞑った。
しかし次の瞬間、園田に訪れた感触は痛みではなかった。ぬめり気と熱。それらが一緒くたになって園田の全身を包んだのではないかと錯覚した。
怖々と薄く開いた目が、何が起きたのかを把握しようとして江国の姿を捉える。江国は先程と同じく目の前にひざまづいている。そして何故か、自らの顔を園田の股間に埋めているのだ。
驚愕のあまり完全に見開かれた園田の瞳が事態を全て把握する。だけど、何故そんなことになったのかを理解することができず、パニックに陥った脳は完全に思考を停止する。
「―――――――っっ!」
園田の声にならない叫びをあげた。それはただ自分の中でだけ響き渡り、動揺のままに園田の身体だけを揺らし、震わせた。
江国が自分の性器を口に含んでいる。
「―――っ! …――――っっ!」
なんで動けないんだ、声が出ないんだ。園田は必死に抵抗を試みるけれど、まるで身体の動かし方も声の出し方も忘れてしまったかのように何もすることができない。
狼狽え、取り乱し、怯えた目で江国を見る。やめてくれ、よしてくれ、なんで、そんな…、必死に訴えかけると江国が上目遣いに視線を合わせた。その瞳からはあの憎悪も鋭さも消え失せている。あるのは恍惚。至福だとでもいうようにうっとりと柔らかく潤ませている。
ぴちゃり、ぴちゃりと濡れた音が園田の耳にも届く。その音に園田ははっとして、今まで失っていた触覚を取り戻した。
初めて感じる人の口腔内の粘膜の温度、ぬめり、感触、そして…。
園田の身体がまた羞恥で煮え立つ。熱くなった血液で身体が火照り始める。
まさか、ありえない、と必死に否定しなければならない。まさか、こんな状況で、そんな…、と。
しかし否定すればするほど、心と身体が矛盾してゆき、江国の口腔内で園田のものが形を変えてゆく。その首をもたげ、膨らみ、柔らかな小動物の様を捨て、猛り狂った獣の牙のように硬く、そして鋭く尖った。
園田は青ざめる。そして頭から引いた血は身体の中を急降下して、股間へと流れ込み、そこを強く脈打たせる。
「―――っ! ――っ…――っ……っ!」
音にならない園田の口から発せられる言葉も、それに合わせて少しずつ色が変わってゆくのがわかる。
最初は微かだった江国の頭の動きが、徐々にそのストロークの幅を大きくする。そして動きが一番大きくなったところで、園田のものを吐き出すように口腔内から解放した。
天を突くように反り返り、江国の唾液や園田から漏れ出したのであろう体液でそれは鈍く光を放ち、確実に快楽を得ている事実が園田の目に突き付けられる。
園田は思わず目を閉じる。そんなものは見たくないと、態度で表わそうとする。狼狽え続けている園田をよそに、江国の口角が僅かながら持ち上がったのを見ずに済んだのは幸運だったのかもしれない。
江国の舌先が根本から先端までをなぞる。敏感になっている園田のものはそれだけで大きく跳ね上がって、望みもしない悦びに震えた。
江国はそんな様子を愛おしげに見つめながら、再度自分の口腔の奥深くまで園田を誘い込む。溢れ出しそうな唾液と一緒に舌を絡め、喉の奥の粘膜を締めて刺激し、頭を前後させて様々な角度で咥え直す。
両手で掴んだ園田の尻が時々びくりと震え、声には出さないけれど良いところを反射的に伝えてくるのを頼りに、執拗なまでに責め立ててゆく。
園田はされるがままに立ち尽くしていると、やがて下腹部に重怠い予兆が訪れるのを感じた。それは抗えない波となって園田に押し寄せて、泣き出してしまいそうなほど切なく身体を震わせる。無駄だとわかっていても、それをやり過ごすために園田は奥歯を噛みしめる。強固な堤防を自分の中に築こうとする。
しかし、それを見透かしたかのように江国が頭を乱暴に振り乱した。強固だと思っていた堤防は荒れ狂う波に飲まれ、あっという間に瓦解した。
「――――――――っ!」
一層切なく園田がないた。今までに体感したことのない悦楽。鋭い稲妻が股間から脳天まで一気に突き抜け、びりびりと痺れる。
大きく跳ね上がっているはずの園田のものは逃すまいとする江国の中で逃げ場を失い、口腔内でのたうちまわりながら白濁を強い脈拍に合わせて吐き出し続けている。
江国はじっと動かずに、ただそれを受け止めていた。やがて園田の呼吸が落ち着き始め、口の中のものがおとなしくなるのを見計らってから、園田を用済みとばかりに解放する。
江国はその後、顎を高く上げ、目を瞑った。いったい何だろう、とぼんやりしている頭で園田がその光景を見つめていると、やがて江国は白濁をすべて喉の奥へ集めてから、喉をごくりと一度だけ大きく鳴らしてそれを飲み干した。
「ひっ!」と園田は息を呑む。薄目を開いた江国は満ち足りた多幸感に酔いしれて身体をぶるりと大きく震わせてから、込み上げてくる喜びを抑えきれないといった風に微笑んだ。
こいつ、狂ってる。
目の前にいるこの生物はなんだ。人間じゃない。そうだ、化け物だ。人間のふりをした、江国の皮を被った化け物なのだ。怖い。怖い、怖い! ここから逃げたいっ!
「うわぁぁぁぁぁあぁぁぁあ……!」
また園田が叫んだ時、やっとそれは音になり、声となった。声が出たことを理解した瞬間に身体の自由も取り戻していることに気が付く。
ずり下がった下着やジャージをとにかく引き上げると、園田はそこから走り出す。四方を囲んだカーテンを闇雲にくぐり抜け、廊下に通じる引き戸を力任せに開け放った。
「きゃああっ! な、なに?」
タイミング悪く、戻ってきたのだろう保健の先生が進路を塞ぐ。
何か言わなければ、説明しなければと思うけれど、ぱくぱくと口が空振りし、何一つ言葉を発することができない。そんな悠長なことをしてる間に、江国が背後から追いついてくるんじゃないかという恐怖が園田に襲いかかる。結局、園田は無言のままに先生を辛うじて交わし、廊下に出ると後ろを一度も振り向くことなく全力でグラウンドに向けて駆け抜けた。
あんなに持久走を嫌がっていた人間の走り方ではなかった。酸素が足りなくなっても、突然の運動に足がつってしまってもお構いなしに、園田はとにかく安全だと思える場所まで走り続けた。
遠くに自分と同じジャージを着た生徒たちの姿が見えてくると、園田はやっと足を止め、肩で息をしながら後ろを振り向いた。江国が後ろから追いかけてきているなんてこともなく、身体の自由も完全に取り戻していた。
グラウンドでは、一周を二百メートルで作られたトラックの周りを生徒たちがだらだらと走り続けている。
その中の一人が園田に気が付いて、足を止めることなく大きく手を振ってみせる。それが吉川だとわかった時、園田は地獄から抜け出し、命あるうちに天国へと辿り着いたのだと思うくらいに安堵して、馬鹿みたいに手を振り返した。
さっきまでの出来事は夢だったのではないかと園田は思う。しかし、未だに熱を帯び、疼いている下腹部により、そんな儚い思い込みも打ち砕かれて何が現実なのかわからなくなる。
走っている生徒たちの邪魔にならぬよう避けながら、園田はトラックの中へと入る。そこには走っている生徒とは別に、周回を数え、計測する生徒たちが地面に腰をおろし、ぼんやりと自分のパートナーを眺めている。
園田はその中に鈴木の姿を見つけ出した。隣に立つと、鈴木は面倒くさそうに顔を上げ「おつかれさん」と言った。
「……おう」
呆然とするあまり、座ることもできない園田は、また身体の自由を失ったかのようにしばらくそこに立ち尽くしていた。
「遅かったな。…なんかあったんか?」
園田はびくりと身体を震わせながらも「いや、別に、何も…」と慌てて誤魔化した。その不審な様子に鈴木は眉をひそめて、不思議そうに園田を見ていたけれど、そこまで興味がなかったのかすぐに視線を逸らして、自分のパートナーが走っている辺りに目を向けた。
ようやく園田も鈴木の隣に腰をおろし、まわりに悟られぬよう何度か深呼吸を繰り返し、とにかく落ち着かなければ、と自分に言い聞かせた。ようやく心拍数が落ち着いてきた頃に、鈴木がまた園田の方を見ているのがわかった。
「……なんやねん」
じっと見つめる鈴木の瞳に、さっきまでの出来事を全て見透かされているように感じて、園田はまたはらはらとさせられる。
「いや、園田も保健室行った方がええんちゃう?」
「は?」
「顔、真っ青やで」
その鈴木の一言で、園田の顔からは更に血の気が引き、空よりも海よりも青く染まることになった。
だけど、どんなに顔色が悪くても、体調が優れなくても、今だけは保健室に戻る訳にはいかなかった。そこに戻るという選択肢は園田が何よりも恐れていることだった。
それから園田はわざと好調をアピールするかのごとく、元気にトラックの周りを駆けてみせた。別に誰が見ているわけでも気にしているわけでもないのに、保健室へ送り込まれる事態だけを避けるために、世界中の誰よりも元気な人間であることを証明しなければならないのだった。
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