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「江国君って、めっちゃ頭いいねんて」
吉川が何となく放ったその一言に、園田は大袈裟にむせて、啜っていたうどんが危うく鼻から飛び出しそうになった。
せめて心安らかに過ごしたいと思っている昼休みに、昼食をとるため訪れた学食で、まさか「江国」と「勉強」という園田が今一番聞きたくないワードを、しかも二つ揃って聞くことになるとは思ってもみなかった。
「わっ、園っち、どうしたん? 大丈夫?」
目の前の席に座る吉川に、お前のせいだろうが、と口には出さず目だけで伝えてみるけれど、それがうまく届くはずもなく、不思議そうに首を傾げてみせた。隣に座る鈴木に至っては、園田の口から発せられる飛沫から守ろうと、自分の弁当をさっと遠ざけ、さも迷惑そうな様子で園田を睨んだ。
「……まぁ、それにしても一気に有名人やな、江国とやら」
園田が落ち着くのを待ってから、鈴木は弁当箱を元の位置に戻しながらそう言った。
「他のクラスの女子とかも見に来るもんなぁ。でも、なんで急にあんなかっこよくなったんやろ?」
吉川も再び箸を動かし始める。彼の目の前にはA定食が、そして隣の空席には誰か他の人物がいるかのようにB定食が並んでいる。しかしその空席には誰も座ることはない。吉川が二つとも食べてしまう。
「親が整形のプロ、とか? もしくは古代から伝わる禁断の魔術で…」
鈴木の目が怪しく光る。次は何に影響されたんだ、と園田は呆れてしまう。
「急に運動もできるようになったってさ。持久走の記録、陸上部よりええらしいで」
雑多な見聞や憶測混じりの妄想まで、江国についての様々な情報が今やクラスを越えて学校中を飛び交っている。
「ほう…。ほんなら実家が大豪邸やって噂もホンマなんか?」
「……やめろ」
園田は箸を置き、二人の話を剣幕な様子で遮った。
「江国の話は、やめろ。……飯がまずくなる」
鈴木も吉川もそんな園田をきょとんと見つめる。二人には勿論あの日のことは話していない。いや、話せないというのが正しい。もし話したとしても信じてくれる訳もないだろう。身体の自由を突如奪われて、その後に犯されたことなど。
「……でもさ、園っち。チャンスやん」
しばらくの沈黙の後、吉川がA定食を完食してからふいに言った。
「チャンス?」
「そう。さっきも言ったけど、江国君、めっちゃ頭いいねんて」
相変わらず人の話を聞かない奴だ、と園田は怒りを通りこして呆れ、大きくため息を吐いた。
「頭いいから何やねん?」
苛立った声を出す園田に気が付いているのか、いないのか、吉川がそれを気にする様子はない。
「勉強、教えてもろたら?」
「はぁ?」
再び箸を持ち、口元まで麺を運んだ園田だったが、それをまた器に戻しながら吉川を見やる。
「なるほどな。それは名案や」
勝手に納得しだした鈴木が口を挟んだ。
「俺らが一緒に進級するためには園田一人の力では無理や。かといって俺らでも、どん底の人間を助けるには力が足りん。こうなったら神様とまではいわんでも、救世主くらいには降臨してもらわんと…」
「せやろ? 我ながらナイスアイデア。これで園っちの先輩にならんで済むわ」
吉川も満足気に頷き、満面の笑みを浮かべる。園田の存在も意向も無視した救済案が可及的速やかに可決されようとしている。
「ちょっと待て!」
園田は両手で二人の前に壁を作り、その暴挙を身を挺して阻む。
「そんなことできる訳ないやろ! まず、なんで江国の了承もなく勉強を教えてくれることになってんねん? 確かに頭は良いんかもしらんけど、あんだけ人に囲まれても誰とも仲良くなる感じちゃうし、俺なんかいっても門前払いもええとこやろ!」
「えー、そうかなぁ。ほら、園っちと江国君って保健室まで連れ添った仲やん?」
ここにきて吉川の口から「保健室」のワードまで飛び出したことに園田の背筋が凍る。
「確かにこれはチャンスや。売った恩を返してもらう時がきたようやな」
鈴木が不敵な笑みを浮かべたところで、園田の限界がきた。思わず立ち上がり、うどんの器をのせたトレイを持ち上げる。
「気分悪いから、先戻るわ」
「え? 園っち? おーい…」
吉川の間の抜けた声が追いかけてきたけれど、それを無視して足早に食器返却口に向かう。
江国という名前が出るだけで動揺してしまう人間が、どうして勉強を教えてもらうことなんてできようか。
歩調を緩めずに、園田はそのまま学食を後にした。教室に戻ろうかとも思ったけれど、そこには江国本人がいるのではないかと気が引けた。目的もなく歩くのも限界があるため、とりあえず少しだけ感じる尿意に従ってトイレに向かうことにした。
長閑な昼下がりに、朗らかな生徒たちの声が校舎全体を包んでいる。自分もその空気に溶け込んでしまいたいのに、と今は恨めしい気持ちになってしまう。
そんな重苦しい気持ちがやがて足に伝わり、急ぐこともないかと、肩を落としてとぼとぼ歩く。ついでに俯いてしまったがために、前方への注意が疎かになった。
「園田君」
名前を呼ばれて顔を上げたのは、ちょうどトイレの真ん前だった。声のした方向に目をやると、力の抜けきった身体が瞬時に緊張して強張った。
一気に体温が低下し、なのに嫌な汗が体中から噴き出す。目は見開かれ、驚くあまり自然と顎が落ちた。そうして全身で目の前に現れた江国の姿を捉えた。
「……話が、したい」
心臓が壊れるくらい胸を打っている。脈動の音は緊急警報として園田のこめかみの辺りで鳴り響く。
「……あ…、の…」
江国と目が合う。しかし、今は身体の自由を奪われることも、声を失うこともないようだ。逃げることもできるし、叫ぶこともできる。江国は園田のリアクションを待っている。
「あ、あの、い、今、忙しくて……」
視線を彷徨わせて、咄嗟に園田は行こうとしていたトイレの扉を凝視する。
「……じゃあ、ここで待ってる」
その視線により、園田がトイレに行きたがっているのだと解釈した江国は、それが終わるまで待つ構えをとった。
仕方なく園田はトイレの中へ逃げ込むように入った。中には偶然にも先客はおらず、園田は存分に狼狽えることができた。
広くもない空間を右往左往しながら、頭の中ではこの事態をどう切り抜ければいいのかを考え続けていた。そうしている間に江国が扉を開けて入ってくるような気がして、遂には個室の中へと閉じこもった。だけど、より狭く、圧迫された空間に入ることで、どんどん自分が追い詰められているような気持ちになって、自分の首を自分で絞めているようなものだった。
助けを呼ぼう。園田はそう思い立ち、ポケットに手を突っ込んで、そこにあるはずのものがないことに愕然とする。携帯はこんな時に限って鞄の中だ。
窓から逃げだそうとしても、二階という微妙な高さだし、正面切って江国を振り切ろうとしても、あの時のように動けなくなったら、と怖くなった。
それに今逃げ切れたとしても、学校にいる限り、何度でも江国は園田の前に現れるような気がした。
何故自分だけがこんな目に、と泣き出してしまいそうになるのを園田はなんとか堪える。
逃げられない。
そう結論づけた園田は諦めから開き直り、むしろ胸を勇ましく張って個室から出て来る。足が震えているのは隠せないけれど、せめて虚勢を張らなければ心が折れてしまいそうだった。
「……話って、何?」
トイレの外で待っていた江国に、園田は自分から声を掛けた。自分では威嚇するつもりで発した声は、妙に上擦ってしまい情けないものとなった。
「場所を変えたい」と江国は言い、先導するように歩き出した。
一度歩き出すと江国は後ろを振り向くことはなかった。必ずついてくるだろうと確信のもとに歩いているようにも見えるその姿は、気が付けばどんどん人のいない方へと園田を誘っているように思えた。
園田も園田で決して口を挟むことなく、何かあったら咄嗟に逃げ出せる距離を江国からとりながら仕方なくそれについていくしかなかった。
廊下を歩き、階段をのぼる。その先に辿り着いたのは屋上へと続く四階の踊り場だった。屋上へ入ることは禁じられているため、その先の扉には鍵がかかっているはずだ。特に用事があるはずもなく、滅多に生徒はこの場所へと近づくことはない。
やっと立ち止まった江国に倣って園田も狭い踊り場で、できる限りの距離を測りながらそこに立つ。しばらくじっと背中を向けていた江国が静かに振り向くと目が合った。それだけで情けなく身体が震えるのを園田は忌々しく思った。
「……なんやねん、話って」
黙ったままの江国に、園田はせめてもの強がりで苛立ちを込めて再度問う。耳の奥で心臓の音がうるさい。またあの時のように襲われでもしたら…と正直、気が気じゃない。
そんな園田を見透かすような目で江国は真っ直ぐに見ていた。心はすでに後退りを始めている。何とか言え、早くしろ。怯えながら、さっさとこの場から去りたい園田の心はこの先の展開を急かすように囃したてるけれど、声に出すことはできない。
しかし、そんな園田の心の声が届いたかのように江国が遂に動いた。
身構えていた園田の身体は思わず後ろに大きく仰け反った。両手はファイティングポーズの構えで、臨戦態勢をとる。
だけど、そんな園田の姿を江国はもう見ていなかった。九十度近くに上体を折り、目は冷たい床にだけ向けられている。
「……ごめんなさい」
そして世界を揺るがす罪を犯し、それを心から詫びるような声音で謝罪を口にした。
「許して、ください……」
園田は呆気にとられて、返事を返すことも、ファイティングポーズを解くこともできなかった。ただ江国の後頭部だけを見つめ、唖然としているしかなかった。
江国が遂には膝を折り、額を床にこすりつけて土下座する段に至って、ようやくはっと意識を取り戻し、あたふたとまた狼狽えだした。
「……ううん、許してくれとも言いません、ただ謝りたくて」
「やっ、やめろや…っ!」
「本当に、本当にごめんなさい…」
「わ、わかった…っ、わかったからっ!」
江国の顔が上がる。見上げるようにした江国とまた目が合って、園田は咄嗟に逸らした。
「と、とりあえず…、立てよ」
そう園田が言っても、しばらく江国はそのままでいた。
「立てって…っ!」
尚も強く言ってようやく江国はおずおずと立ち上がった。横目で一瞥すると、江国は俯いて今にも泣き出しそうな顔をしていた。弱々しくて、儚くて、でもそれはあの日、保健室で見たゾンビのような顔では全くなかった。少なくとも憎悪も敵意も感じられないその表情に、園田は少しだけ身体の緊張を解いた。
「……ごめん、なさい」
更に重ねて謝罪する江国に園田は苛立ちさえした。
「謝るくらいなら、なんであんなことしたんや?」
その苛立ちを敏感に察知した江国は今度は逆に身体を震わせた。
「それ、は……」
「それは? なんなん? 江国はあれか。ホモなんか?」
「ち、ちが…っ!」
「じゃあ何やねん?」
「それは…っ、…その……」
園田は緊張が解けると、心に渦巻いていた不安が溢れ出して口からこぼれた。責め立てるような言葉の波を受け止めきれず江国は口ごもる。
「……やっぱり前言った通り、俺のこと嫌いなんやろ? でも、なんでなん? 俺、江国になんかしたんか?」
「…………」
いくら待っても埒があきそうになく、痺れを切らした園田は大きなため息を吐く。それでも何も言わない江国の様子に諦め、とにかくこれで用件は済んだだろうと、その場を離れることにして背を向けた。
「あ、あの……っ!」
やっと江国が声を発したのは園田が階段を降りようとしたその時だった。無視してそのまま立ち去ってもよかったけれど、このままではどうせ園田自身も心が晴れぬままになってしまうだろうと、仕方なく振り返ることにした。
「……信じて、もらわれへんと…思うんやけど…」
引き留めた割りには尚も江国の歯切れは悪い。園田は心の中で舌打ちをしてその先を待った。
「僕は…、僕は、その…」
園田は返事をする代わりに首を少しだけ傾げて、その先を促す。
「……僕は」
江国の泳いでいた視線がやっと園田に辿り着いた。そしてようやく決心したのか、大きく息を吸うと一息に言い切った。
「僕は吸血鬼の子孫やねん」
キュウケツキ。
吸血鬼、ドラキュラ、ヴァンパイア。いくつもの呼び名と、黒いマントに鋭い牙という独特なその姿が頭の中に思い浮かぶ。十字架とニンニクが嫌いで、人の生き血を吸う妖怪、化け物。夜の世界に生き、日光を浴びると死んでしまう。コウモリが不気味に飛び回る人里離れた古城に住んでいる。
吸血鬼について園田の知っていることといえばそれくらいのことだ。でも、だからといって何だと言うのだろう。どうして今、この会話の中で「吸血鬼」という言葉が唐突にあらわれたのだろう。
訳がわからず、園田はただ眉間に皺を寄せ、江国に目で問いかける。でも、その先に言葉が続くことはなかった。江国もただ真剣味を帯びた眼差しで園田を見ている。それはふざけているのはなく、本気で言っているのだということを態度で表わしているようだった。
だとしたら、やはり江国は気でも狂っているのだろうか。
先日も突然「もうすぐ死ぬ」などと言ってみたり、今日は今日で自分は「吸血鬼の子孫」だなどと言う。どう考えても正気を保った人間であるとは思えない発言ばかりだ。
それに、もし仮に江国が吸血鬼の子孫だったとしても、保健室で起きた出来事の説明は全くつかない。
何故なら、あの時江国が吸ったのは園田の血ではない。
あの時吸ったのは俺の――――。
そこまで考えて、園田は思い出しかけた、おぞましい光景を振り払うために首を振った。
「……わかった。もうええわ」
そしてこれ以上江国と関わりあっていたくなくて、やはりこの場を去ることにした。
「え、あっ…あの……」
「忘れる。あれは悪い夢やった。いや、あの日は何もなかった」
何か言おうとした江国を遮って園田は言う。
「せやから江国も忘れてくれ。そんで、できる限り俺には近づかんといてくれ」
きっぱりと拒絶する園田の言葉に江国はぐっと押し黙った。
そうするのが一番いいと思った。来年はどうなるかわからないけれど、とにかく同じクラスでいるのもあと二ヵ月程度だし、今まで通り、お互い見ず知らずの関係に戻り、平穏に暮らすことさえできれば園田は満足だった。
「それで、ええやろ?」
有無を言わさぬ態度に、江国はやがて小さく頷いた。
そこでちょうどタイミング良く、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
「ほな、そういうことで」と言い残し、園田は階段を一人で降りてゆく。この瞬間からまた以前の見知らぬ二人に戻るつもりだった。
「園田君っ! 何か僕にできる事があったら言ってね!」
まだ踊り場にいるのだろう江国の声が後ろから響いた。園田は振り返らなかった。
「君は命の恩人や! この恩はどんなことをしてでも返すからっ!」
まだ命がどうとか言うのか、と園田は呆れながら、それでもここ数日ほど悩んでいた問題が思っていたより早く片付いて、心の隅ではほっとしていた。
もうすぐ本鈴が鳴る。足早にそれぞれの教室に向かう生徒たちの中に紛れ、園田も午後の授業を受けるため自分の教室へと急いだ。
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