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 久しぶりに父、母、兄の拓也、そして拓朗の家族四人が揃った。  一家団欒とは程遠い静寂に満ちた室内には、江国家の先祖達が集めたアンティーク調の家具が並ぶ。それらは古めかしくも手入れが行き届いており、朽ちることなく佇んでいる。  四人で囲むにはいささか長すぎる長方形のテーブルの上座には父が、そして母と拓也が向かい合って座り、拓朗は拓也の隣に腰掛けている。  壁に沿って給仕が三人立っていて、食事を運んだり、父や母のグラスに気を配り、ワインを注いだりしている。 「今日は調子が良さそうやな、拓朗」  父が仔羊の肉をワインとともに飲み下してからそう言った。拓朗が食事の手を止めて父を見やると、満足そうに微笑んでいるのが見えた。 「これでやっとお前も江国家の男子として一人前ということやな」 「……はい」  沈んだ拓朗の声をよそに、いつもは聡明で気品が漂う父の笑みは、ひどく下卑たものに映った。母も、拓也もそれにつられるように口角を上げる。それを拓朗は見るともなしに眺めてから、残酷さに打ちひしがれた。  給仕のうちの一人が父に音もなく近づいて、空いたグラスにワインを注ぐ。  初めて見る男だった。若く、体格にも恵まれていて、顔付きは精悍だ。きっと父が新しく見つけてきた従僕のうちの一人に違いないが、素性も知れない人間がこの場にいることに拓朗は強い抵抗を感じた。  だけどそんな風に感じているのは、きっとこの場で拓朗だけなのだろう。  父も、祖父も、曾祖父も、ずっとそうして生きてきた。脈々と続く、悪しき江国家の血。その血脈の中に、自分も遂に引き摺り込まれてしまった。もがき、苦しみ、必死に拒み続けた日々も、今ははるか遠い。もう戻れない、拓朗はそうわかっていても尚、それを良しとはできずにいた。 「どんな子なのかしら。会ってみたいわ」  母が楽しげにそう言った。拓朗は曖昧に頷くだけで何も返せなかった。  拓朗が一番不可解に感じているのは、母だ。  自分の愛する夫の蛮行や、江国家の秘密について知っても尚、こうして平然と振る舞い、一家の一員としてここにいる。自分ならば、とても正気ではいられないと拓朗は思う。 「一人やと心許ないやろ。あと二、三人見つけてストックしとけよ」  拓也が良き兄としてアドバイスでもするかのように言った。拓朗は遂に堪らなくなって席を立った。 「……ごちそうさま」 「あら、もういいの?」  母が拓朗の皿と顔を交互に見てから不思議そうに首を傾げた。拓朗は両親に向けて会釈すると、足早にテーブルから離れる。部屋を出る時に、父の新しい従僕が扉を開いて、拓朗に向かい恭しく頭を下げた。そんなことすら癪に障り、苛立った。  廊下に出ても歩調を緩めず自室へと向かう。 「拓朗坊ちゃま」  それを引き留めるように背後から声がかかった。振り返ると、使用人を束ねる執事の山下が追いかけてきていた。拓朗が生まれる前から江国の家に仕えている山下は、拓朗にとって叔父のような存在である。父と歳もそうかわらないはずであった。 「坊ちゃま、遅くなりましたが、この度はおめでとうございます」  追いついた山下に誕生日でもないのに祝われる。それは拓朗が江国家の一員となった事実を明確に指していて、思わず拓朗は表情を苦々しく歪める。 「……めでたくなんか、ないよ」  吐き捨てるような言葉に、山下は気遣わしげに拓朗を見た。江国の家の者ではない山下にとって、拓朗はどんな風に映っているのだろう。男の精を吸い、見違えて美しさと健康、そしてあらゆる力を手に入れた拓朗を。  想像したくもなくて、拓朗は山下を置いてまた歩き始める。 「坊ちゃま…」  その背中にもう一度山下の声は届いたけれど、拓朗は聞こえてなどいないかのように立ち止まることはなかった。  自室に戻ると、明かりも付けずにベッドの上に俯せた。暗闇の中でこうしていることが、今は一番心を落ち着けられる。  何も考えないようにと目を瞑り、しばらくそうしていると段々うとうととしてきて、夢うつつに甘い香りが鼻孔をくすぐった。  拓朗は酔いしれるようにその香りを身体いっぱいに取り込んだ。その濃厚でとろけてしまいそうな甘さを拓朗は知っていた。どこで嗅いだ香りだったろうかとぼんやりした頭で考えながら探るうちに、ぼやけた像が瞼の裏に浮かんで、もう一度大きく息を吸い込んだ時には霧が晴れて、その人がはっきりと輪郭を縁取った。  驚きのあまりに拓朗は咄嗟に上体を起こし、目を見開く。  しかし、そこは目を瞑る前と変わらず静かで暗い部屋の中で、拓朗以外の人間は誰もいるはずがなかった。  いるはずもない彼の、園田の身体が放つ甘い香り。拓朗が思い出していたのはそれだった。  脈が速くなっているのを感じる。それとともに、確かにその香りを欲し、無意識のうちに求めてしまった自分の醜い欲求を自覚する。  拓朗は泣きたい、と思う。それでも涙は出なかった。  誰よりも「江国」を憎み、誰よりも「江国」に呪われている。それが今の自分なのだと認めざるを得なかった。  園田にひどいことをした。傷つけてしまった。だけど、それ以上に傷ついている拓朗のことをわかってくれる人は誰もいなかった。  わかってほしい、と思う。認めてほしい、と。  しかし、それを一番できずにいるのが、拓朗自身なのだ。そんな自分を誰が許してくれるだろう、側にいてくれるというのだろう。  確かに拓朗は「江国」の血脈を引き継いだ。だが、夜は尚も深く果てしない。まだ拓朗はその闇の中から抜け出すことはできない。
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