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「乾杯!」
スタッフもキャストも笑顔でグラスをかち合わせる。
シャンパンの香りがパアッと辺りに広がった。
バーミリオンのツーピースを着た私、マリンブルーのロングワンピースを着こなしたベティに対し、白のミディアムワンピースを纏った智恵は清楚そのものだ。
役用のメイクを落として自前の控えめな化粧を施した顔は小作りに整った目鼻立ちで、それ自体の印象は私やベティと比べるとはっきり言って薄い。
風貌自体の持つ雰囲気や個性で売るタイプではない。
だが、だからこそ化粧次第で聖女にでも悪女にでもなれる顔に思えたし、それだけの力量もあるように思えた。
私は「清純派」と世間では呼ばれるし、今回演じたひたむきなウエイトレスの亜季子もその路線に沿ったものだが、
“吉川あかりは大根”
“ワンパターンの演技しかできない女優”
と評されていることは自分が良く知っている。
戦争で父を亡くし、母一人子一人で育ったことも同情的に見られはするが、そこには所詮はろくな教育もない娘という蔑みが潜んでいるのだ。
ベティも日本人離れした顔立ちやスタイルが持て囃されはするけれど、そうした外見上の個性はファッションモデルとしてはさておき俳優として決して有利になるものではない。
風貌は大人びて見えるが実年齢では私より三つ下の十六歳(だから私たちのグラスに入っているのもシャンパンではなくオレンジジュースだ)、終戦の翌年に生まれ、横浜の施設で育った彼女の演じる役は主として本人と重なるような「不遇だが明るい混血娘」だ。
この西洋人形じみた娘が進駐軍の落とし子であることを皆知っていて、それしか演じさせようとしない。
こう言っては何だが、一応は純粋な日本人の外見をした私より役の幅を広げる上でベティはもっと不利だろう。
こちらの眼差しをどのように取ったのか、シャンパンのグラスを手にした智恵はふっと微笑んだ。
そうすると、控えめな化粧を施した顔が「臈長けた」とでも言いたいような、艶はあるのに上品な雰囲気になる。
多分、私より一つ二つは上らしいこの人はやはり偉い人のお妾とかそんな人だろうか。
身に着けた白いワンピースは間近に観ても質の良いものだし、流れるような所作も明らかに貧しい環境に長くいた人が自然に出来るものではない。
この業界に入ってどこか偉い人の愛人だとかそんな噂のある人にはちょくちょく会った。
しかし、そうした人にありがちなあくどさやそこはかとない意地の悪さといったものは見えない。
「何だか今でも吉川さんやベティさんとお仕事が出来たのが信じられないです」
周囲の目が私たちというより白いワンピースの新人に集まるのを感じた。
おっとりとした口調だが澄んだ声で相手は語る。
「中学生の頃、ブロードウェイで『マイ・フェア・レディ』を観た時からずっと俳優に憧れていました」
ブロードウェイ? マイ・フェア・レディ? 頭の中で耳にしたことはあるが自分にとっては未だに遠い世界にある言葉が反響する。
「失礼します」
不意に飛んできた、静かだが重い声が皆の目を智恵からそちらに向けさせた。
ロマンスグレーの髪をオールバックに固め、三つ揃えのスーツを纏った、正に老紳士と呼ぶに相応しい男性が立っていた。
「探しましたよ」
凍った面持ちの智恵に向かってどこか寂しい笑いを浮かべて告げる。
これは智恵の父親だ。どこかのお金持ちだろう。
紳士の品の良さや身なりから直感的に思った。
「あの、お父様ですか?」
何となく「お父さん」より「お父様」と呼ぶべき雰囲気なのでそう智恵に尋ねてみる。
「うちの家令です」
固い面持ちの彼女は答えた。
「皆様、失礼致しました」
老紳士は深々とロマンスグレーの頭を下げた。
「うちの千賀子お嬢様がお世話になっております」
蒼ざめた固い面持ちの智恵もといチカコはどこか苦い物を含んだ笑顔で告げる。
「父が連れ戻せと言ったのでしょ」
静かだが確かな声で続ける。
「でも、私は戻る気は……」
「いえ、私の一存です」
三つ揃えの家令は言い切った。
「お嬢様が出て行かれてすぐ居場所の調べはついておりました」
白いワンピースの令嬢の目は虚ろになる。
「旦那様は山崎や雙葉の名に頼らず、厳しい世界に挑戦すれば、現実が分かるだろう、と」
周囲に一瞬、張り詰めた空気が走った。
それでは、この端役の彼女があの雙葉財閥創設者である山崎家の令嬢なのか。
「旦那様は今日、倒れて慶應病院に運ばれました」
白ワンピースの華奢な肩にさながら死刑宣告を受けた人のような震えが一瞬、走った。
「まだご意識は戻っておりません」
謹厳な家令の顔の瞳に潤んだ光が宿った。
「どうか私と一緒にいらして下さい」
使用人の言葉を聞く令嬢の白い面に一筋の涙が伝い落ちた。
「分かった」
シンと静まり返った中、掠れた重い声が響いた。
取り出したレースの白いハンカチで目を拭うと、端役の彼女は笑顔で皆に向き直った。
「見苦しい所をお見せして申し訳ありません」
艷やかな黒髪の頭を家令共々深々と下げる。
「失礼致します」
白いワンピースの背を見せて令嬢は迷うことなく歩いていく。
「車は外に待たせてあります」
家令の告げる声が微かに残された私たちの下に届いた。
シンとした沈黙が飲み掛けのグラスと食べ掛けの料理を前にした私たちの間に停滞している。
「あの子、随分なお嬢様だったんだなあ」
監督がまるで許可を出すように声を発した。
「演じる役とは開きのある人だとは私も思いましたけど」
ベティも何だか寂しい笑いを浮かべてオレンジジュースの入ったグラスを生のままでも派手やかな紅い唇に運ぶ。
「あの人、演技の仕事はもうこれっきりなんでしょうか」
胸の裡に留める呟きのはずが、思わず口から零れた。
皆は申し合わせたように目を伏せて答えない。
どこかホッとしたような、しかし、また彼女とは一緒に仕事をしたかったような、彼女の芝居を観たかったような一つに纏まらない気持ちに襲われて窓ガラスに目を走らせる。
ガラス窓の向こうはすっかり夜に闇に包まれ、卵色の光を放つ街灯の周りを白い蛾とも蜻蛉ともつかない羽虫が二、三匹縺れ合うようにして飛んでいた。(了)
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