蜻蛉《かげろう》の娘

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 一九六二年、九月を迎えた東京。  敗戦から二十年近く経ち、高度成長期のさなか、人口一千万を突破した街は夜を迎えても星のような灯りに彩られている。  ビルの一階に入った喫茶店は既に営業時間を終え、若いウエイトレスたちは片付けもそこそこに話し込む。  私ことヒロインのA子、正確な役名は“亜季子(あきこ)”にウエイトレス仲間で一番親しいB、こちらも正しい役名は“バービー”の彼女がどこかからかう風に切り出す。  「あの彼、今日も来てたわね」 「ええ」  こちらは頬を染めて笑う。 「あの人、確か夏休みだけ上の電気会社さんに雇われた給仕さんじゃなかった? あちこちでアルバイトしながら夜学に通ってるとか」 「そうだけど、私が大切な物を封筒に入れて渡す約束をしたからああしてちょくちょく来てくれるの」 「それって……」 「トンボの餌。ハエの死骸とかね」  大きな目を丸くするバービーに向かって亜季子はどこかはしゃいだ調子で語る。 「あの人は小さな鳥籠の中に二匹のトンボを飼ってるの。オスは太郎、メスはエミ子で名前を呼ぶと羽ばたきして近寄ってくるんだって。それがとても可愛いんだって」  ふと笑いが寂しくなった。 「でも、あの人は忙しくて大切なトンボ二匹の餌は取れないから、うちに来た時に毎日ああして封筒に私が餌を入れて渡してるの」  俯いた亜季子はウエイトレスの制服ワンピースの胸をギュッと掴む。  役の設定では十九歳。東京の片隅で家族を養うために働く不遇な娘だ。 「そう」  バービーは痛ましい面持ちで見詰める。   名前からも明らかなように彼女も進駐軍の兵士を父親に持つ不遇な育ちだ。 「バカバカしい」  と、煙草をふかしてそれまで醒めた目で私たちを眺めていた別のウエイトレス仲間C、“智恵(ちえ)”は真っ赤なルージュを引いた唇を尖らせた。 「何がトンボの餌よ。いっつもコーヒーまで奢らせて。きっとあんたを(たら)し込んでヒモにでもなろうって魂胆よ」  固まった私とバービーにけばけばしい化粧をした知恵は酒焼けした風なガラガラ声で言い放つ。 「あの男には絶対に裏があるわ」  凍った空気が流れた。 「OK!」  監督の声が響く。 「今日はここまで」  ふっと張り詰めた空気が緩んで、亜季子役の私とバービー役のベティは伸び上がった。 「ありがとうございます」  灰皿を持って現れたスタッフに口紅の着いた煙草を渡すと、智恵役の彼女は静かに澄んだ声で告げる。 「お疲れ様です」  伸び上がっている私たち二人にも豊かな髪にきついパーマを掛けた頭を下げた。  流れるような動作だ。  そう思う内にも相手は制服の背を向けて奥の控え室に辞していく。  正直、あの新人の彼女はこの場面以外はさして台詞もない、“都会のカフェで働く擦れっ枯らしの女の一人”というモブ的な役どころだ。  だが、演じている間は役そのものの荒んだ女なのに終わった瞬間、別人のような素に戻るのだ。
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