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始まりの場所は、男の寝室だった。
壁に付着した手垢や煙草の煙は年季が入った風情を醸し出しているが、薄暗さのため、慣れてしまった人間にはさほど気にかからないだろう。壁に刻まれた年月に反して、ベッドは真新しい。この一日前に運び込んだ医療用ベッドで、使用者が腕の力だけでベッドの上を移動したり、義足を装着したりしやすい構造になっている。
それから、男だ。四十絡みの男で、肌は浅黒いが金髪だ。染めているのかもしれないし、あるいは白人系だが紫外線に焼けたのかもしれない。体格はがっしりしていて手足は長く、背筋を伸ばして立っていれば色男に見えるのではないか、と彼女は思う。だけど目の前の男は、勿体無いぐらいのひどい猫背だった。彫りが深い顔立ちで、その眼窩の奥に見える目の色は深い茶色だ。男はその目で、彼女を観察している。
「なんでそんな髪の色なんだ?」
男が最初に聞いたのはそれだった。彼女の髪は、頭頂部から耳の辺りまでは緑色、その下あたりから徐々にメッシュを入れて、毛先はピンク色という色合いだった。
「緑とピンクが逆だと、頭頂部に毛がないみたいに見えることもあるのよ、遠くから見ると。緑の髪の禿頭なんて嫌でしょ」
彼女の答えは、男にとっては予想外だったようで、数秒面食らったあと、含み笑いする。
「そんなことを聞いたんじゃないんだがな……まあいいや。名前は?」
「ロージィ・ラブバード」
「なんだって?」
「鳥の名前、コザクラインコの別名。頭が緑で、顔がピンクの小さな鳥、知ってる?」
「どうだか。ネットで見たことはあるような気がするが……ラブバードって、人間に恋する鳥だったか」
「そう。ぴったりでしょ、この仕事には」
そんな風に彼女、ロージィは答える。
男も、ロージィも、本物のインコなんて見たことがなかった。人間が自宅で鳥を飼う習慣が廃れて、すでに長い。
「あなたの名前も教えてよ」
ロージィは首を傾げ、男に向かって気さくに尋ねる。淡い髪の色に似合わず、その目の色は真っ黒だ、まるでこの世界の表層一枚を剥がした先に広がる、宇宙空間のように。
「ホルヘ・ペレスだ。よろしく。……じゃあ」
そう言って片手を差し出しかけた男、ホルヘ・ペレスを、ロージィは制する。
「待って。貸与期間開始前に、契約条項を読み上げる規則があるの。…メタ学習性パートナーAI搭載アンドロイド、LV−2571SX、型番RS0517F。契約種別スタンダードにて604800秒の貸与で承っています。貸与期間のサービスには、家事労働、契約者を対象とする介助作業、その他軽作業補助、簡易カウンセリング、及び通常性的サービスを含みます。表皮シリコンコーティングを含めたアンドロイド機体への故意の損壊行為は契約違反となり、賠償責任の対象となりえますのでご注意ください。貸与前に全ての機体はクリーニング済みです。以上につきましてご了承いただける場合は、声紋及び虹彩認証によるサインをお願いします」
「……了解した。たった今から開始か?」
「ううん。握手して、それで開始」
ロージィは右手を差し出す。ホルヘはその手を握り返した。
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