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(プロローグ)
西暦二〇八〇年、夏のことであった。
兵庫県神戸市三ノ宮の繁華街より少し外れた坂の途中に、『エデン』という一軒の寂れたラヴホテルがあった。時は既に日暮れから、街に夜の帳が降りる頃であった。
突如として激しい夕立が神戸の街を襲った。ピカピカピカーッ。灰色の空に有刺鉄線のような光線を放って、稲光が走った。ゴロゴロゴローッ。そして地響きを伴わせ、雷鳴が辺りに響き渡った。繁華街にいた人々は雨宿りの場を求めて駆け出し、きゃーきゃーと女、子どもの逃げ惑う声も響いた。
陽が完全に沈んでも、夜になるまで雨と雷は続いた。そしてドッカーンと、遂に何処かでひとつの大きな落雷が起こった。場所はラヴホテル・エデンの直ぐそばであった。その影響か否かは定かでないが、突如エデンの館内の電気が落ちた。停電したのである。
ホテル内はまっ暗になった。わずかに非常灯だけが灯っている。館内放送も出来ず、客はさぞや動揺しているのではあるまいか……と思いきや、幸か不幸かその時ホテルには、一組の客もいなかった。
オギャー、オギャー、オギャー……。ところがである。客室のひとつである『狼』の室内より、なぜか突如赤ん坊の泣き声が聴こえて来た。それは激しき泣き声であった。尚このホテルでは、客室を数字やアルファベットで示さず、漢字による何らかの名称を与えていた。例えば『風』、『太陽』、『月』、『星』、『海』、『草原』などである。その中のひとつ『狼』の部屋からの、予期せぬノイズであった。
フロント兼清掃員の中年女が、それに気付いた。オーナーの男に連絡すると共に、懐中電灯を点けて『狼』の室内へと入った。見ると窓辺に見覚えのない大きなバスケットがひとつ、置かれているではないか!恐る恐る中を覗くと、何と薄汚れた白い小さなベビー服に、赤ん坊がくるまっていた。しかも一児のみでなく、赤ん坊は二児いたのである。女が腰を抜かさんばかりに驚いたのは、言うまでもない。雨と共に続く稲妻が断続的に光り、室内の暗い空間と赤ん坊の姿を照らし出した。
「何や、これ!」
女は呆れたように叫んだ。
オギャー、オギャー、オギャー……。
一児の赤ん坊でもうるさいものを、それが二重奏とあっては堪らない。狭い室内に泣き声が響き渡る。女はバス、トイレ、ベッドの下も含め、室内の全てを見回してみたが人影はなく、怪しい形跡も見当たらなかった。
仕方無く女はバスケットを抱えると、フロントに戻り、それを無雑作にカウンターの上に置いた。改めてそこで駆けつけたオーナーと共に、大きなランタンの光で二児の赤ん坊を照らした。
「捨て子か?けど客は、いなかったんやろ?」
問うオーナーに女は頷いた。
「はあ。よう分からしませんけど、どこぞの不届き者が、ドサクサ紛れに捨ててったんちゃいます?」
「そうか?」
「停電でドア入ろう思たら、強引に入れたんちゃいますの?」
「しかも双児て」
「両方とも、女の子ですわ」
女は赤ん坊の股間を見て、確かめる。
「女の子か」
「しかも産まれたばっかでっせ、この子ら。産みたてほやほやで、そのまんま捨ててって。不憫な子らやわ、可哀想……」
「面倒なこっちゃな」
「どないします?」
「警察届けるしか、あらへんやろ」
「そどすな。あーあ、腹減った」
警察に連絡した二人は待つ間、泣き続ける赤ん坊などほったらかし、フロントの奥で休んでいた。
しかしその間に、予期せぬ事件が起きた。
まだホテル内の電気は復旧していない。警察のパトカーもまだ到着前。その暗闇と空白の時の中で、ひとつの黒い影がホテル内に侵入したのである。
黒い影、生き物。夜の闇に紛れながら、突如現れたるそのひとつの影とは?先ず、人間ではなかった。なぜなら四つ足、四つん這いだったからである。では動物?犬か猫か。その生き物は、どっしりとした逞しい体格である。よって猫ではない。ならば犬か?であれば余程でかい犬ということになるが、首輪はしていなかった。では野良犬?しかしこの界隈に、野良犬などいなかった。では山犬か?何しろ、六甲山脈の麓である。何処かの山の飢えた野犬が赤ん坊の匂いを嗅ぎ付け、遥々ここまで下山して来たのであろうか?
その生き物の息遣いは、荒々しかった。ゼーゼー、ゼーゼー……と、肺の音すら伝わって来るかと思う程に忙しない呼吸音である。加えて豪雨に打たれたのか、毛は全身びしょ濡れであった。
しかし不思議なことに、ホテルの入口の自動ドアは停電の為閉じられたまま。それが開けられた形跡もなかった。ならば如何にしてこの不審なる生物は、中に入って来れたか。またいずこよりやって来たのか。そんな謎を秘めたまま、そいつはフロントの前に立っていた。そして、えいっ!カウンターの上に軽々と飛び乗るや、例の赤子たちが入っているバスケットの前に立ったのである。
中年女が、その気配に気付いた。そして奥から出て来るや、その黒い影へと素早くランタンの光を向けたのである。暗闇の中に照らし出されたその姿は、矢張り犬に似ていた。が犬ではなかった。闇を引き裂く鋭い眼光、鬼すらも噛み殺さんが如き尖った牙、そしてほとばしる野性の臭気。それでいて物質文明に染まることのない気品と気高さとを、見事なまでに具えていた。その生き物とは?その正体は、一匹の狼であった。
しかし女は、狼などとは夢想だにも出来なかった。犬、えろうでかい犬やなあ!驚嘆しつつ、恐れおののいた。
「何や、おまえ。何しに来た?あっち行け」
恐る恐る小声で囁くので精一杯。一方狼の方は冷静沈着、動揺の欠片すら見せず、余裕でただ女を見返すのみであった。
その時、ゴロゴロ、ゴローッと雷が鳴った。そしてそれを合図に、狼はさっと行動を起こした。その動作たるや機敏、迅速。目にも留まらぬ速さであった為、女はただただ唖然として、傍観するのみであった。今自分の目の前で、一体何が起こったのか?それすら分からなかった。気付いた時には既に、狼の姿は消えていた。しかもバスケットの中の赤子、双児の中の一方も消えていたのである。狼が連れ去ったというのか?後にはただ狼の毛に付着していたと思われる雨のしずくだけが、カウンターの一面に残されていた。
「えらい、こっちゃ。どないしょ」
動揺した女は直ぐさまオーナーを呼び、分かる範囲で状況を説明した。二人は一緒に狼の行方を追って、ホテル内を捜し回った。先ず正面の自動ドアを見たが、閉まっていた。ということはまだホテルの中にいる筈である。しかし全階の廊下、階段、トイレを隈無くチェックしたが、いなかった。何処に隠れているんや?そうこうしているうちに、パトカーが到着した。
ホテルのオーナーと女は正直に、起こった事の全てを警察に話し、バスケットとひとりだけ残された赤子を見せた。再び警官と共にホテル内を捜索したが、結局狼も赤子の片方も見つからず仕舞いであった。
「ではその大きな犬が、もう一人の赤ん坊をさらって行ったと?」
「そうとしか、言いようがありまへん」
神妙な面持ちで、中年女は答えた。
狼ならぬ狐に摘まれたような人間たちを余所に、では狼は一体何処ヘ姿を消したのであろうか?しかも一児の赤ん坊と共に。
あの時呆然とする中年女を尻目に、狼は先ずバスケットの中の赤子の一方のベビー服を口に銜えた。あたかも最初から、その赤子の方だけを目的としていたかの如くにである。確かに狼は迷うことなく、明らかにその赤子だけを選んだ。
次に狼は、赤子を宙に持ち上げた。と同時に何が起こったか?何と!狼は間髪を置くことなくそのまま、赤子と共に忽然とその場から姿を消してしまったのである。丸で闇の中へと、吸い込まれるかのように……。
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