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3
クロードも今までリリアーヌのことを忘れようと努力しなかったわけではない。
銀髪の娘がいると聞けば、その娘を宮殿に呼び、忙しい中、時間を割いて会ってみた。しかしリリアーヌの絹糸のような髪を持つ者も、『クロード、ねぇ、クロードってば』と屈託なく笑う美少女もいなかった。
もちろん彼の望む女がナーラスの王族の中にもいないこともすでに調査済みだ。いたらとっくに妻にしている。
「王の女関係をせっつくからこんなことになるのです」
「うるさい」
レガードがざまあみろとばかりに笑い、そしてナーラスの王族の姫なら妥協してもいいのではないかと言い出して、クロードの一睨みを食らう。
「とにかく、リリアーヌを正式なわが后とするようにナーラスの馬鹿重臣どもに圧力を加えよ」
「かしこまりました、皇帝陛下」
レガードは大仰にお辞儀をし拝命すると、何か言いたげにちらちらとクロードを見た。クロードは持ちかけていたワイングラスを置いて面倒くさそうに尋ねてやった。
「なんだ、言いたいことがあるのなら、早く言え」
「それが実は――」
『実は』まで言っておいて、白髪の老人の話はやはりそこで止まってまた『実は』ともどかしい。クロードは早くしろとばかりに手のひらを広げて見せた。年寄りは歯のない口をもぐもぐとさせるとため息交じりに口をようやく開く。
それによると、レガードは昨夜、王がどの女を召したのかと聞きに、アンリの側近、ボリスと面会したのだという。そして王の若き侍従のボリスから驚愕の事実を告げられた。
『若い王が空閨とはどういうことですかな。我が国の娘は気に入らないのでしょうか』
『いえいえ、そのようなことではございません』
『では皇帝陛下のご厚意を無にしないでいただきたいものですな』
ボリスは困り果てた顔をしたという。
『レガード卿。これは内密にして欲しい事柄なのですが、実は……。我が王の興味は別のところにございまして――』
要領を得ない遠回しなボリスの言葉から、やっとのことレガードが理解したのは、アンリが男色であるいうことだった。頭が固く信仰深いレガードは心臓が止まりそうになったのは言うまでもない。
『そ、それは! 王は既に誰かをお召しになっているのですか』
『いえいえ、そういうわけではなく……。陛下もお悩みのご様子。難しいお年頃なのです、どうかお世継ぎの件はもうしばらく御猶予ください』
為政者の男色は秘されていて知られていないだけで少なからず例はある。
ただそれが忌まれているのは、王の寵愛を笠に権力を得ようとするよからぬ男が出てくるからだ。
特にアンリはまだ十六で王として幼い。後見人のクロードを押しのけてその男がこのナーラスの権力者となったら大変なことになる。
「皇帝陛下、ナーラス王の周辺の男を一新すべきです。必ず我らと対立する者が現れます。その前に、王のまわりはこちらの息のかかった者に代えるべきです」
レガードの主張は明瞭で正しかったが、クロードは少し考えて、誰にも相談できずに悩んでいただろう少年に同情した。
世継ぎを作らなければならない王という立場で、そうできないのは、きっと耐え難い葛藤があっただろうと思ったのだった。やはりクロードの中ではアンリは義弟という意識が少なからずあった。
「今は放っておいてやれ。アンリはまだ十六だ。二十一、二になるまでどうせ親政できないのだし、好みも変わるかもしれない」
「変わるものですか」
「……まぁ、それは分からないが……。とにかく、今から会ってどういうことなのか直接尋ねしてみよう」
「そうなさってください。私めはアンリ王のお好みが変わるような美女を今から探しに行ってきます。ご安心ください。地の果てまで行ってでも探して参ります!」
レガードは不毛なあがきをしに出て行ったが、クロードは少し重たい足を引きずってアンリの住む宮殿を目指さなければならなかった。
なんと切り出したらいいのかも分からない。悩み悩んで歩いていると、いつの間にかリリアーヌのために掘らせた池の畔を歩いた。
「島に小さな城を建てたのか」
昔あった木の橋はもうなく、灯りがぽつんと一つある、石造りの中世風の建物があった。おとぎ話のお姫様がひょっこり塔の上から髪の毛を垂らしそうな趣で、リリアーヌが好きそうだと思うと自然、頬が緩む。
昔は『クロード! クロード!』と手を振って転がるようにリリアーヌは橋の上を駆けてきたものだがその橋はもうどこにもなく、島との行き来は舟なのか、小さな桟橋があった。その時
――なんの音だ?
頭上から弦楽器の音色がして、クロードが頭を上げると、大理石で出来た東屋があった。
柱には蔦が這い、コケが生している。
アンリがその縁に座り、ジャケットの裾を垂れ、リュートを奏でていた。
「アンリ」
声を掛ければ、大きな瞳を満月のように膨らませた少年が指を止めてクロードを見下ろした。クロードは、そんなアンリの様子を気にせずにそのまま階段を上る。
「こんな夜遅くにどうかしたのですか」
「悩みごとがあると聞いて来た」
「悩み?」
思い当たることがないアンリは、目をぱちくりさせて、側にいたボリスを見た。ボリスもまさか皇帝がそのことでわざわざやってくるとは思わなかったらしく、慌てて王に男色であることをクロードの側近の耳に入れたことを耳打ちして、鳩尾に拳を食らっていた。
「なんでそんなことを!」
「陛下がおっしゃったのではありませんか! 言えと!」
「信じるなよ!」
二人の囁きは残念ながら、クロードの耳に届いて苦笑を誘ったが、ことは真剣な悩みである。笑うのも不謹慎だと思い、アンリの隣に神妙な面持ちでクロードは座った。
「恥ずかしがることはない。ままあることだよ、アンリ」
「ままあることって……。僕は……あの、僕は……」
「もう誰か気にとめている者でもいるのか」
「そ、そういうわけでは……」
アンリの声は狼狽し、どうつくろおうかとあたふたしている。
「話してくれないか。リリアーヌは婚礼前に亡くなったが、もし今も生きていたなら、俺は君の義兄となっていた。気楽に悩みを打ち明けてくれ」
「…………」
アンリは助けを求めるようにボリスを見たが、皇帝と王の話に割っては入れるはずはない。アンリは孤立無援の状態に陥り、口を開き、そして閉じ、再び閉じるというもどかしい動作を繰り返していた。
「お前たちは下がっておれ」
東屋の上には月が傾き夜空を渡り、気持ちの良い風は庭を通り過ぎて行く。アンリは『月がきれい』だからと下がるボリスにランプを手渡し、無言で空を望んだ。
闇となった庭園。
他の庭は精密に設計されているというのに、池に近いこの一角はまるで森の中のようにうっそうとしている。手入れされないまま枝が枝とくっついてトンネルのようになった並木道、コケだらけのむき出しの岩。小川のせせらぎ。アンリはさながら森の住人のように紺碧の空に浮かぶ白い氷輪を見上げた。
「満月か」
「きれいですね」
「ああ」
クロードはそれでリリアーヌともこうして月を見上げたことがあることを思い出した。あの頃はまだ彼女は小さくて膝にのせて座らせたものだ。しかし、無情にも王女はもうこの世の人ではなく、月は満ちかけするというのに、クロードの心だけが切なくここに留まっている。
――リリアーヌ……。
哀れなナーラスの王女が死んだのは、十中八九、クロードを狙った毒のせいだった。
ナーラス王を加えた王家の内輪で食事した後、その夜のうちに二人とも吐き気と高熱におかされ、すぐに意識を失った。
そしてその早朝には息を引き取り、ナーラスの役人が訃報をクロードに伝えにきたのは、午後のことで、クロードは死に目にも会えず、しかも『お見せできない状態である』と言われて棺は固く閉ざされていた。毒殺であるのを隠すつもりだったのだろうとクロードは思っていた。
だから、彼はリリアーヌのことを考えるといつも苦しくなる。当時は妹のように可愛がっていただけだけれど、生きていたら今頃きっと、などと考えると、辛くてならない。
自分があのときに死ぬべきだったのに、死神に打ち勝ったアンリさえクロードを責めてはくれなかった。
だからだろうか。月がきれいだというアンリの背中を知らないうちにクロードは抱き寄せ、きゅっと首に腕を回せば、リリアーヌとは違う香水の匂いがする。それでも亡き婚約者を思い出し、その弟の耳元で『リリアーヌ、リリアーヌ……』と甘くささやいてしまった。
「あの、皇帝陛下……」
戸惑ったアンリの声にクロードははっと我に返った。
「すまない、どうかしていた。アンリを見てリリアーヌを思い出してしまったんだ。飲み過ぎたようだな」
「別にかまいません。姉上と僕はよく似ているから……。だから、それで……。ただそれだけの話だから……」
アンリは指先をくるくるとすり合わせて顔をそらす。
「リリアーヌが恋しくてならないようだ」
「そう、ですか……」
「心配しなくていい。俺はアンリの味方だよ。俺も叶わぬ恋をしている。せめてアンリには幸せになってもらいたい」
「じゃ……」
アンリが顔を上げた。泣きそうな顔をして、助けてと瞳が言っているようだった。
「お願いがあるんです」
「なんだろう?」
「リリアーヌの弟としてのお願いです」
個人的な頼みということか。真剣な眼差しの少年にクロードもそれ以上真剣に向かい合った。好きな男の名でも告げるのかと思った。しかし、アンリの口から発せられたのは、もっと難しい頼みだった。
「僕を退位させて欲しいんです」
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