消えた花嫁は男装の王

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10  クロードは昨夜のことも今朝のこともまるでなかったかのように馬にまたがった。ただ少し機嫌が悪いのは、二日酔いのせいではなく、エドモンがアンリの学友を三人連れてやって来た上、一緒に行こうなど誘っていないというのに、チャッカリ付いてきたからだ。  アンリがその不機嫌に気を使ってか尋ねた。 「頭痛はどうですか」 「なんともない。アンリは?」 「だんだん良くなっているので、湖に着く頃には良くなっていると思います」  クロードは手袋を口にくわえて脱ぐと、馬上から摘んだベリーをアンリに手渡した。 「甘い」  頬を緩ませるその愛らしさときたら、昨日まで可愛いと思っていたセレナの十倍で、細身の乗馬服姿のアンリはコルセットを来た女性よりよっぽど魅力的だった。 「いいお天気になってよかったですね」  そこに現れたのはエドモンだ。アンリと二人で並んでいたのを無理やり真ん中に入り込む。クロードが二人きりになりたいのを知っていてわざとしているとしか思えない。 「いつもは昼まで寝ているエドモンがどうしたんだ?」 「せっかくですから、アンリ王に学友たちを紹介しようと思ったのです。昨夜は早々解散でしたからね。機会を失ってしまいまして」  エドモンが連れてきたのは、まずはエドモンの弟のルイ、十三歳だ。この兄を持っているにしてはおとなしい子で、頭はすこぶるいい。残念ながらあまり友達がいないらしいのでアンリと二人一緒にさせるのは両得だとエドモンに押し切られる形で選ばれた。  もう一人はスパーナ国の王太子のリカルド、十七。フォートには十年住んでいるのでもはやフォート人と言っていいかもしれない。おちゃらけたムードメーカーで友達も多いし、何より血筋がいい。  最後の一人は十八のジャン。奨学生で真面目な性格。友達というよりもどちらかというと目付役としてあてがった。 「よろしく」  アンリは屈託のない笑顔を三人に見せた。クロードはアンリを恥ずかしがり屋だと思っていたのでそれはとても意外だった。クロードといるといつも緊張し、ちょっとのことで赤くなる。これは成長の兆しなのか、はたまた自分に対してだけそうだったのか。 「アンリ」  クロードは無理やりエドモンをどかすとアンリの横につけた。彼は大きな目を見開いたかと思うとすぐに下を向き、少しだけ距離を作った。  ――もしかして俺のことを避けている?  ショックで死しそうになった自分を振り返る。やはり朝のあれがまずかったんだろう。うなだれて一団から一人離脱すると、すぐに学友三人がアンリを囲む。アンリはこの国のことを何も知らないので、何を聞いても大げさに『すごい!』と言って喜ばせるから、皆がアンリと話したがった。  クロードは三人を並べてみて、やはりアンリはずば抜けて美しいと思った。  緑の広がる草原に風が吹けば、彼の銀色の髪が揺らぎ、白樺の並木をきらめかせる。馬の鼻を撫でてやる手つきも優しく慈愛がこもっており、花の匂いを嗅ごうと顔を近づけるさまも絵のようだった。  ――何を俺は考えているんだ。アンリは男だ。こんど剣を教えてやらなければ!  勇ましいことを思っても、やはりアンリの赤い横顔に目が行ってしまう。 「陛下」  後ろから悪魔の囁きのような声がした。 「…………」 「あの様子ならアカデミーでも上手く過ごせそうですね」 「勉強に付いていけるのか心配だ」 「寄宿舎に入れればよろしいのに。二十四時間勉強漬けです」 「アンリは病弱だ。寄宿舎には耐えられないだろう。それに――」  クロードは言葉をつなげるのを止めた。  ――それに男どもに何かされたら大変だから。  そんなことはまさか言えない。エドモンぐらいの鋭い男ならクロードの隠れた感情をすぐに暴き出して囁くだろう。 『二人だけの場所を手配いたしましょうか』などと。 「陛下?」 「あ、いや」 「舞踏会の次の日です。お疲れなのでは?」 「そんなことはないよ。こうして青い空と緑の木々を見るのは最高にいい」  疲れているのではなく眠いだけだ。昨夜は一睡もしていない。アンリの手前、寝たふりをしたが、あの柔らかな体を抱いて寝られるはずはなかった。 「着いたら食事にしよう」  小さな丘があり、それを超えれば湖がある。アンリたちの後ろには護衛と侍従が五十人ほど付き添っていて、外での昼食でも宮殿のような料理が出て来る。ナーラスは内陸の国であるから、珍しいだろう魚を手配させてあった。 「ああ、そうだ。陛下」  エドモンが思い出したように声を上げると、顔を耳に近づけた。 「あの、マクシム・バローですが、あれは男色ではありませんよ」 「ではない?」 「反応が鈍いので、その手の話をしたのですが、よく分からないといった顔をするのです」  クロードは考えた。もしかしたら、マクシムは自分のように曖昧な感情で誤解を招いているだけなのかもしれないと。あるいは、そういう想いがあっても相手が主なので果たせないのではないだろうかと。  クロードはマクシムの後ろ姿に自分を見つけた。  ――やはり、俺はアンリが好きなのか……。  馬を下りて、誰が一番早いかと、丘を駆け上っていく少年たち。アンリの背をルイが押しながら走り、アンリが高い空の分だけ明るく笑う様を見ると否定し難い。  ――可愛すぎるだろ。  恋なのかもしれないとクロードは思った。  許されることのない恋は、苦しいだけなのを知っている。リリアーヌを毒で失った時、もう二度と恋はしないと誓ったのに、再びこんな風に恋の病にかかるとはクロードは思ってもみなかった。それも罪深くも重い恋の病に――。  ――いっそアンリが女の子だったらよかった。そうだったなら身分も釣り合うし、幸せにする自信もある。どうしたらいいのか……。  空を見上げても答えは返ってこなかった。代わりにアンリが丘の上から大きく手を振った。あのシャイなアンリとは思えないほど活発で、生き生きしている。 「クロード、何をしているんですか! 早く早く!」  少年の瞳が太陽に煌めき、クロードは馬の腹を蹴って一気に丘を駆け上がる。護衛隊の馬蹄の音が彼を追い、土が跳び、草の匂いがむす。そして目の前に蒼い湖が広がれば、湖と同じ色の瞳をした少年が、轡くつわを掴んで言った。 「クロード。ありがとう! こんな綺麗なとこに連れてきてくれて。最高です!」  独裁者はその笑みに息が止まりそうになった。胸が締め付けられて思わず身を前かがみにしたほどだ。再会した時の陰気な姿はもうどこにもなかった。アンリは連れてきた軍用犬の頭を撫で、また来た時のように丘を滑り降りて湖に足をつける友人たちの輪に加わる。 「美しいですね」  エドモンドが言った。頷くクロード。 「あ、ああ……。美しすぎる」 「湖が――」  わざと後から『湖』を足したように聞こえた。 「エドモン」 「何か?」 「何んでもない」  相談できるとしたらエドモンしかいない。口は堅いし、男色に関しては先達者だ。しかし、まだ口にできるほどのはっきりした気持ちはないし、勇気もない。アンリのようにクロードにも時間が必要だった。 「冷たい!」  ルイがアンリに水をかけ、アンリも足で水を蹴っている。その無邪気さが微笑ましいのと同時に小さなルイに対してまでむっとしてしまう。  リカルドがアンリの肩にふれ、ジャンが拾った石をアンリに手渡す。  そういう他愛ない少年たちの遊びすらクロードはだんだんと許せなくて、馬を降りると靴を放り投げた。そしてずかずかと水の中に入って、アンリを荷物のように背に担ぐと言った。 「アンリは体が弱い。水に入って風邪でも引いたらどうするんだ!」  そしてすぐに四方を白いカーテンに囲まれたテントにアンリを連れて行き、そのまま長椅子に座らせた。 「気をつけろ」 「はい……」  すっかりしぼんでしまったアンリを気の毒に思ったのか、エドモンがとりなそうとテントに近づいた。しかし、クロードの一睨みによって足は止まり 「子供たちを注意してまいります」と踵を返す。それでテントの中はしんと静まり返り、アンリが居心地悪そうにもじもじするものだから、クロードは今度は何を話したらいいのか分からなくなって、ごまかすために説教がましくなる。 「アンリ。君は王なんだ。学友と仲良くするのはいいが、今のようなことはしてはならない。彼らは友達じゃない。学友なんだ。身分を考えろ」 「はい。申し訳ありませんでした」  別に叱られるようなことをアンリはしていない。  ただクロードはアンリがたくさんの人に囲まれて楽しく過ごすのが嫌だっただけだ。  ――俺だけにしろ。  そんなセリフはまさか言えない。アンリの濡れた細い足を掴むと驚いて目をむき出している少年を無視して、それを拭いてやった。手つきは乱暴だが、クロードの心は繊細にその足に反応して乱れる。  ――女みたいな足だ。  乙女のようなそのつま先にクロードは禁断を感じた。 「こ、皇帝陛下」 「クロードと呼べと言っただろっ」 「は、はい。申し訳ありません。あの、自分で拭けます」 「そんなに恐縮するな!」  アンリからしたら、何をそんなに怒っているのか分からなかっただろう。クロードさえ、自分の苛立ちをよく理解できていなかったのだから。  アンリの細い足首は容易に男の手で一周できる太さだった。白い甲の先に小さな指が行儀よく並んでいて、まるで誘っているように見える。クロードは他人の足になど興味を持ったことは一度もないというのに、その白さに艶な美しさを感じ、慌てて拭った布をアンリの顔に投げつけた。 「いい、もう行け」 「は、はい」  アンリは靴を掴むそのまま走って皆がいる方へ逃げていった。  髪をかき分けるクロード。  嫉妬丸出しだったと自分でも分かっている。分かってはいるが、どうしたらいいんだろう。女たちから『氷の皇帝』と呼ばれていた自分が少年ごときに感情を引っ掻き回される。それは不快であるのに、なぜかやめられない。  ――こんなのは正しくない。自制しなければアンリを困らせてしまう。
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