消えた花嫁は男装の王

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11  アンリはずっと通いたかったアカデミーの制服を手に取るとそっと袖を通した。黒のマントのついたジャケットを着て左肩だけそれを掛ければ、憧れのアカデミー生だ。凛々しすぎるのはさておき、今日から念願だった学問ができる。  アンリは王として政治学や、地理学を学びたいと思っていた。今まで男として生活してよかったことなど何もなかったけれども、これからは学校に行けるから少しはマシになるだろう。友達を作り、試験に追われ、仲間と政治を論じ、飲めないけど酒を飲んでバカをしたい。  ただ困ったことが一つだけある。クロードがアンリを甘やかしすぎるのだ。  部屋は金銀の装飾にあふれて、リリアーヌへの罪悪感を埋めようとするかのようにアンリに贅沢を許した。学校に行くのだってそうだ。他の生徒の制服はメッキのボタンなのにアンリのは純金でできている。学校に行ったら、きっとアンリがボタンを落とすのをみんな心待ちにするだろう。  だから思い余って言ってしまったのだ。 「クロード、僕をあまり甘やかさないでください。そんなに心配しなくても僕は大丈夫だから」 「君は藩国の王としての体面があるし、我が国の客だ。甘やかしてなどいない」 「ナーラスの予算から必要な費用は出ていますし、我が国は自然豊かで観光に優れていますが、それほど産業があるわけではなく厳しい生活を民は強いられています。王のわたしがあまり贅沢をしては示しがつきま――」 「俺のすることに文句があるのか」 「あ、いえ、そういうわけではなくて」  ここのところ皇帝は機嫌が悪い。周囲によると忙しいのが理由のようだ。不眠不休で国事をこなし、細部にまで目を配る姿は、まるで何かに取り憑かれたかのようだとみなが心配している。  アンリなど同じ宮殿に住んでいるというのに、公の場でしかクロードに会うことがなくなっていて、廊下ですれ違っても『やあ』『どうも』ぐらいだ。  それでもアンリは彼に逢いたくて、入学前の挨拶という理由を作って謁見室でこうして会ってもらえたというのに、彼の厚意を無にするようなことを言って怒らせてしまった。  彼はイライラと背を見せたり、アンリの顔を見たりして、結局仕事を理由に出ていってしまいそうになる。アンリは強く後悔した。 「クロード、待って」  そして今日こそはちゃんと話さなければと彼の手を掴み、彼をじっと見つめる。皇帝の手に許しなく触れるなど無礼中の無礼だと分かっている。それでも引き止めたかった。 「何か僕はしましたか? ずっと避けているようだけど」 「避けてなどいない。忙しいだけだ。君のせいじゃない」 「僕にできることはないですか。お疲れのように見えます」 「何もない」 「あの、じゃ、肩でも揉みましょうか」 「…………」 「義弟なのです。どうかそれぐらいはさせてください」 「今から学校だろ? 早く行け」 「少しぐらい遅れても大丈夫です」 「大丈夫じゃない。今日は初日だ。いいから行け」 「では夜にでもお時間はありますか」 「夜……」 「ずっと会えていなかったから」  会いたいとずっと思っていた。  この前みたいに触れてほしかった。なのに、クロードからは突き放すような言葉しか返ってこない。アンリはマントの中に手のひらを隠して指先を弄んだ。 「なんていうか……。最近二人で話せていなくて……もしかしたら嫌われてしまったんじゃないかと思って」 「そんなはずないだろう」  アンリの沈んだ様子にクロードが強く言った。語気はやがて『俺はなんで……」という独り言とともに静まり、二人の間に小さな沈黙が生まれた。 「すまない。他に頼る人もいないのに、一人ぼっちにさせてしまって。ただ本当に忙しくて時間は作れない」 「忙しいのは知っていました。無理を言ってごめんなさい。行ってきます」  アンリは浮かれていた自分を恥じた。  クロードに弟扱いされ、いつかリリアーヌとクロードとの関係のようなものを、アンリとしても作れると思っていた。アンリは落胆をたくさん背中に積みこむと『失礼します』と消え入りそうな声で言った。  ――クロード。好きなの。お願い、わたしをそんな風に見ないで。  言いたいけれど言えない言葉。もしクロードがアンリはリリアーヌであると知ってしまったら、ナーラスの小胆な重臣たちは、皇帝を謀った罪で裁判もなしに打ち首だ。  ――もう自分から会いたいというのはやめよう。きっと迷惑なんだ。  アンリは背中を見せた。コツコツコツと三歩歩き、ドアの前に立つ。もともと大きなドアではあるが、こんなに大きく険しく見えたのは初めてのことだった。重いノブをゆっくりと回し、もう一度振り向きたいのを我慢してドアを少し開けた時、後ろからクロードの手が頭上に伸びたかと思うとドアは押し戻された。パタンとしまった閉まったドア。クロードがアンリをがっしりと抱きしめた。 「夜、一緒に食事しよう。学校のことが聞きたい」 「本当ですか」  アンリは振り返ろうとしてクロードの手に阻まれた。 「見ないでくれ。情けない顔をしているんだ」 「クロード」 「いい。もう、いいから、行け。振り返るな」  クロードは手のひらでアンリの顔を隠すと、ドアを開けてその背を押した。一歩部屋を出てそれが閉じると心配げにマクシムがアンリを迎えた。 「どうされたのですか?」 「なんでもない」 「陛下は酷くお疲れのようでしたか」 「忙しいらしい」  アンリはマクシムと話したくなかった。クロードは何か悩みがあるように見えた。『女性?』と考えて、最近の噂を思い出す。 『ガーリアの王女と結婚されるらしい』  ガーリアといえば西の藩国で、ナーラスの二倍はある豊かな国だ。  めでたいことだとセレナは言っていたが、アンリは浮上できないぐらい落ち込んだ。なにしろ、ガーリアの王女といえば、有名な美少女である。それに染めているとはいえ、銀髪なのでクロード好みといえて、噂はそれほどあてにならないようには思えなかった。  ――片思いでもしているのかも。  アンリはそう考えた。クロードが自分と会いたくないのは、新しい恋をしようとしている時にリリアーヌと同じ顔を見たくないからではないか。  ――わたしはクロードが幸せになって欲しい。でも、それを側で見ていられる?  永遠にクロードが独り身などということは絶対にない。彼は次の皇帝をもうけなければならないのだ。クロードがきれいな后と可愛い子を囲って微笑む横でどんな顔をしていればいいのか、想像しただけでもつらい。 「ジャンが迎えに参りました」 「馬でいく。ジャンの馬も準備してあげて」 「かしこまりました」  マクシムが指示を出しに先に言った。ボリスがアンリの顔を覗き込む。 「馬車でなくてよろしいのですか」 「なんか風に吹かれたい気分だ。いい天気だしね」  アンリは窓の外を見た。
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