消えた花嫁は男装の王

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2 「それで、アンリは誰か女を召したのか」  アンリ二世の成人祝いの舞踏会に出席するためにその前日にフォート国より到着した皇帝クロードは王宮の長い廊下をまるで自分の屋敷のように大股で歩いていた。 「いえ、そのままお休みになったそうでございます」 「それはまた潔癖なことだな。もう十六だろう? 軟弱すぎる」 「やはり正式な妃を我が国より差し上げた方がいいのではないでしょうか」 「まぁ、年齢的にそうだろうな」  クロードは、若き藩国王の後見人として婚礼のことをどうすべきかすでに考えてある。十六のアンリとは年回りはちょうどいい従妹の姫がおり、その娘とどうかと思っていた。ただ、年齢がまだ十二で、あと数年は待たないとならないから、その間は別の、つまりクロードの息のかかった娘と恋仲になっていてもらうというのが計画だった。 「アンリは婚約に関して嫌とは言わないだろう。問題は宰相のタブロンたちだ。またのらりくらと得意な技で引き延ばしたすえに『結構なお話なれど――』と言ってくるに違いない」 「力で黙らせるしかないでしょう」 「そうなるだろう」  クロードはどう反対を黙らせようかと思案して、ふと手を止めた。彼の目の前に巨大な池が飛び込んできたのだ。この湖のような池は十三歳で死んだ許嫁、リリアーヌのためにクロードが掘らせたものである。  彼女の死因は、明らかに毒殺だと言われている。  彼女が亡くなったのはクロードが十九の時だから、当時、女性として王女を見ていたのかクロード自身でも疑問ではあるが、年を追うごとになぜかその記憶の人は輝きを増すのだから不思議である。 『お兄様、その指輪を下さい。お願い、ね、お願い』そう言って足にまとわりついた妹のような王女。  自分と結婚するならいいよと冗談めかして言うと、彼女は少し澄まして、自分以外を妻にしないと約束するならば、妻になってもいいと言った  お転婆で、笑うとリリアーヌという名前に相応しい華やかで明るい人だった。  もう妻とすることはできなくても、彼女が座るべきであった場所は開けておいてあげたいというのが本音である。 「聞くところによりますと、アンリ王が皇帝陛下に王族を差し上げてどうかと口にされたそうです」 「俺に?」 「はい」 「他人の世話を焼きすぎたか」  クロードは苦笑した。アンリが王族の姫をくれるというのは迷惑な話だ。 「婚礼のことは口にしない方がいいようだな。こちらが妃の話を出せば、あちらも同じことを言い出す」 「陛下、尻込みなさるのですか」  右腕の内相で七十の堅物のレガード卿に詰め寄らせそうになったところにちょうどアンリの姿を視界にとらえた。三年前とまったく背丈は変わらず、美しすぎる銀髪を風に揺らして、向こうも懐かしそうに目を細めた。  しかし彼とは昔のような抱擁ではなく、儀礼的な挨拶のみだった。 「ようこそ、お越しくださいました、皇帝陛下」 「歓迎感謝する」  声は十六にしては高く、体も気の毒なぐらい細い。 「道中ご不自由はありませんでしたか」 「そのようなことはない。快適な旅だったよ」 「そうですか……。それはよかった……」  アンリははにかんだように『よかった』を繰り返すと、癖なのか帽子のツバを下げた。クロードは、アンリは病弱ではあっても、もう少し闊達な子供だったように思った。カエルを捕まえては、リリアーヌを驚かせて笑うような少年で、よくクロードの脇の下をくすぐって逃げて回るいたずらっ子だった。  思春期とは、でもこんなものなのかもしれない。  異母妹などは笑ったかと思うと泣いて、男の姿を見たかと思うと隠れて頬を赤らめる。少年の思春期といえば、むすりとして何も言わなかったり、物を投げつけたりするものとばかり思っていたが、身分の高いアンリのような子は少女のような思春期を送っても不思議ではない。  クロードは暗い部屋中に通されるとアンリを観察した。  銀髪は姉のリリアーヌと同じ色で、面立ちも大きな瞳にふっくらとした頬、長い睫毛、双子だけあって二人はよく似ていた。 「皇帝陛下、先だっては贈り物をありがとうございました」 「気に入らなかったと聞いて案じていた」 「そんなことはありません。陛下の威光がさらに広がっているおかげで、各国の菓子を口にできることは嬉しい限りです」 「菓子のことだったのか。菓子より甘いものは好まないのか」 「それはお気遣いなく」  アンリが強い口調になって顔を背け、室内は無言になってしまった。  クロードの方がそれに困惑して子供っぽい王にため息を吐くはめとなる。そしてどうやら本当にこの件はアンリにとってタブーであることが分かって、話題を変えることにした。それこそがクロードがこのナーラスにわざわざ来た本当の目的である。 「一つ頼みがあるんだ」 「何でしょうか」 「王女リリアーヌのことだ。結婚まで至らなかったとはいえ、婚姻の許しを得て、婚礼は三か月と迫っていた中で亡くなった。ナーラスの公文書に王女を我が妻だったと正式に記録し、墓にその旨を刻みたい」  悪い話ではない。  もしそうなればアンリはクロードの義弟になり、他の蕃国のように虫けらのように扱われないし、扱わない理由ができる。  かつてクロードは皇子時代に兄に暗殺されそうになってこのナーラスに亡命していた。その時によくしてくれたのが、リリアーヌであり、ナーラスの先王だった。  冷酷な皇帝と評されても、クロードにも情もあれば恩に報いる気持ちもある。これはリリアーヌへの想いを具現化すると同時にナーラスを守ることに繋がるいい話だと思っていた。  しかし――。 「姉が喜ぶとは思いません」  アンリはきっぱりとそう言った。周囲の者たちは慌ててへつらいの笑みをクロードに向けたが、少年王はただまっすぐにクロードを見返す。 「姉はあなたが幸せになるのを祈っているはずです」  悲しげに、そして苦しげに、長い睫毛をもたげて下を向く。クロードはアンリが泣いてしまったのかと思った。  横にいた金髪の武官も同様に思ったのか、まるでいつもアンリのために用意しているかのようにハンカチを手渡すと、アンリはそれで涙を隠すように鼻を豪快にかんだ。 「アンリ 「もう過去にしてもいいのではありませんか」 「…………」 「姉上に似た王族の娘を探しましょう」  クロードは感傷から立ち上がらなければならなかった。  今までどんな国のどんな王と会っても常に自分のペースで物事を進め、自分が支配者で相手は隷属する者だと知らしめてきたというのに、この少年の前ではクロードの方が負けていた。それはたぶん、自分の損得で話をせずに、心からクロードを思って言葉を吐いたからだろう。しかし、クロードも悩んだ末にそんな頼みをしにわざわざ来たのだ。彼は彼なりの方法でリリアーヌの魂を慰めたいと思っていた。 「アンリよ、俺は頼みがあると言ったには言ったが、それは言葉通りの頼みではなく、命令なんだ。分かるか?」 「そういうことでしたら承知しました。姉上も喜ぶことでしょう」  アンリはにこりと儀礼的に微笑んで言った。その笑みが、泣きそうなときと正反対に冷たくて、クロードの胸がちくりと痛んだ。もう少し違う言い方をすればよかった――と。
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