消えた花嫁は男装の王

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4 「アンリ……」 「ダメですか」 「ダメではない。ただそうなれば次に誰が王になるかで揉めるだろう。親フォート派で若い王族は君だけなのだから」  アンリは涙を堪えると両手を振って笑ってみせた。 「冗談です、冗談」  アンリはぽろりとこぼしてしまった本音を慌ててそうごまかした。 「アンリ――」 「すみません、僕も飲み過ぎたようです。本気にしないでください」  一滴だって飲んでいない。  アンリは冷たいリュートを胸に抱き、震えそうな体を隠して弱い自分を恨んだ。  初恋の人、クロードに抱きしめられ、その懐かしい匂いとぬくもりに自分の立場というものを忘れかけてしまった。  でも、もう大丈夫。へらへらと作り笑いするのは得意だ。  アンリは無理矢理微笑みを作って『飲み直しましょう』などと飲めないくせに皇帝を誘った。しかし、そんな芝居は見通されてしまっていたのか、クロードが手を伸ばして頬に触れた。 「辛いのか、アンリ――」  クロードはアンリの肩に手を置いて顔をのぞきこむ。 「別に子供を作れなくたっていいんだ。そういう王もいるんだよ。まわりがとやかく言うのなら、俺が黙らせるから――」 「いいんです! そんなのいいんです!」 「アンリ……。帰国してからでは俺も君を助けることは難しくなる。だから、悩んでいるのなら今のうちに――」 「悩んでなどおりません」  アンリは、男色とか子供とかそういう話はやめたい。ただ彼とは月の話がしたいのに、クロードはずかずかと繊細な心の中に入ってこようとしていた。  アンリはここから逃げなければと思った。  そうしなければ普段我慢していることが噴水のように天高くあふれ出てしまう。そして自分がリリアーヌで今もあなたのことが好きなのだと大きな声で叫んでしまうだろう。 「皇帝陛下」 「アンリ、君は昔のようにクロードと呼んでいいんだ」  諭すようにクロードは言ったが、その優しさに感謝するだけの余裕は彼女にはなかった。 「陛下。申し訳ありません。気分が悪いようです。御前を失礼してもよろしいでしょうか」 「アンリ――」  アンリの手をクロードが掴もうとしたが、するりと抜けて二人に距離ができた。  本当のことを言えば、アンリは、クロードならば再会してすぐに自分がアンリではなくリリアーヌであると見抜いてくれると思っていた。そしてこの惨めな生活から救い出し、妻にしてくれるだろうとも期待していた。しかし、期待はことごとく打ち破られた上、変な誤解までされてしまったから、乙女としてもう生きていけない。  彼女は忠実なる護衛の名前を呼んだ。 「マクシムはいないか! マクシム!」  どこに隠れていたのか、かさっと草むらが揺れる音がし金髪の護衛官が現れる。 「ご気分が優れないのですか」 「ああ。リュートを頼む」  アンリは軽く帽子のツバを触って「御前、失礼します」と言ってからクロードに背を向けた。 「アンリ! ちょっと待て」  アンリは皇帝の声を無視して逃げるように石段を下りていった。マクシムが『参りましょう』と左手を肩に添え、主従が並ぶように歩き出す。きっとクロードの目には変な二人に見えたことだろうが、もう男色家だと思い込まれているのだからどうでもいい。  緊張から解放された安堵感からアンリはマクシムの上着の端を掴んだ。 「リリアーヌさま。よく思いとどまわれました」 「心配するな。ちゃんと最後までアンリを演じきってみせる」  そう断言したアンリだが根拠もなければ自信もなかった。演技はへたくそだ。ただ口にすれば自然とそうなる気がして呪文のように唱えただけだった。  そしてこんな恥ずかしい思いをしたのは久しぶりだと思った。十歳の時、クロードの前でスカートの裾につまずいてそのままぬかるみに転げた時よりも羞恥心でいっぱいでもう二度と顔を合わせたくないとも思った。 「島にお帰りに?」 「ああ」 「宿直とのいしていってもよろしいでしょうか」 「好きにしろ」  アンリはぶっきらぼうに答えるとボリスたちを置き去りにして舟をこがせた。夏の夜の水面は涼しく、彼女は天を望む。  満天の星がきらめき、月を囲む。  そしてふと振り向けば、クロードが船着き場にたたずんでこちらを見ていた。アンリの頭一個分以上ある長身にして、艶やかな黒髪で大人の色気漂う支配者。孤独そうでありながら、絶対的なオーラで人を惹きつける。 「クロード……」  彼の口からリリアーヌの名を聞いたとき、どれだけ抱きしめ返そうかと思ったか。  いつも子供扱いをして、『キスして』『大人になったらね』『舞踏会に連れて行って』『大人になったらね』と相手にしてくれていなかったのに、それでも愛しいとは思ってくれていたことが嬉しくてならなかった。 「陛下……」  心配顔のマクシム。  その顔には『すべて分かっていますよ』と書いてあり、クロードの代わりに抱きしめてくれるだろうけれど、今のアンリは優しくされるのも辛くて、首を振った。 「疲れたわ。もう寝る」 「何かあればお呼びください」 「ええ」  アンリはここに来たときだけ女に戻れる。上着を椅子に投げ捨てると、シャツを脱いでみた。『ぺちゃぱい』だとクロードにからかわれた時よりはずっと豊かになっているが、無理矢理布で押しつけてあるから、誰にも気づかれることさえない。 「お休み、ネネ」  ベッドで丸くなっている黒猫を起こさないようにそっと布団の中に潜り込む。クロードから貰ったこのネネがいれば、一人でもへっちゃらだと、そうアンリは自分に言い聞かせた。
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