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6
風が強い。
雨が近いのかもしれない。
クロードは窓の外の暗雲立ち込める空を見上げた。同行しているのは騎馬隊四百。雨が降り出せば難儀なことになるだろう。
「お前も寝たらどうだ」
「いえ。私は大丈夫です」
同乗者のマクシムに声を掛けると事務的な答えしか返ってこない。
クロードは、マクシムに寄りかかり馬車の心地よい揺れに抱かれて眠るアンリを見た。
ほんの少しだけ赤い唇を開いて無防備に寝息を立てる。
皇帝と同じ馬車に乗っていながら話し相手にもならずに自分だけすやすやと眠ってしまう無礼者はアンリぐらいだ。
せめてマクシムではなく、自分の肩にアンリが寄りかかったのなら、「子供でもあるまいに、まったく呆れ果てる」などといいながら、その面倒をみるというのに、その役もないからクロードは、お愛想も言わない男と睨み合うようにもう半時も馬車に揺られていた。
「マクシム、お前が起きていると息が詰まる。寝ろ」
「申し訳ありません」
謝った割に目を瞑ろうともしない。主のよきクッションたらんとただひたすらその腕を貸している。侍女のクロエが言っていた通り、潔癖なまでに完璧な男で、クロードは面白くなかった。
「幾つだ?」
「二十三です」
「アンリには何年仕えている?」
「六年ほどです」
ふんとクロードは言って、アンリを見下ろした。
「アンリを起こせ。もうすぐ宿だ。今日は一泊してゆっくり休む」
これ以上マクシムと二人だけでは息が詰まる。アンリさえ起きていれば、フォート語の練習の相手でもして時間も忘れられるだろう。拙い言葉で話すアンリは微笑ましく、目の前の面白くない男とは大違いだ。
「陛下、お目覚めください。陛下」
マクシムがアンリの背を揺らしたが、一向に目覚めない。それどころか、みゅにゅむにゅ寝言とも付かぬ言葉を言いながら、向きを変えてドア側に体をもたれてしまう。普段から寝起きは悪いのだろうなとクロードは思った。リリアーヌもそうだったから――。
「陛下」
マクシムがもう一度、揺すったが、その弾みで今度はマクシムの膝に頭を滑り落として寝てしまう。クロードは一瞬むっとし、すぐにいたずらを思いついた。
「起きろ、アンリ」
クロードはアンリの鼻をつまんだ。昔、よくそうやってリリアーヌを起こしたものだ。息が苦しくなったアンリは手足をばたつかせて飛び上がるように目覚めた。
「何? 何?」
「もうすぐ宿に着く」
「え? え?」
アンリは窓に張り付き、そしてそこに映ったクロードを見て「夢じゃなかったんだ」と呟いた。
「夢じゃない。俺たちはフォートに行くんだ」
アンリは唇をぎこちなく緩ませて、膝に置いたままだったフォート語の教科書を撫でた。嬉しいのだろうに素直に微笑んではくれない。クロードはそれが惜しくて寝癖の付いた髪に手を伸ばして直してやった。
「はねている」
「皇帝陛下……」
「クロードでいいと言っただろ。君は正式に俺の義弟なのだから、誰にももう遠慮することはない」
クロードは警戒を解こうとにこりと微笑んでやった。
それに小さく頷くアンリ。ちょっとした表情の変化がすれておらず憎めない。
それに置き換えマクシムは、微笑をたたえながら、その瞳は氷のように冷たくクロードを見ていた。人は護衛隊長のマクシム・バローを穏やかなの騎士と評するらしいが、クロードから言わせれば狭量な男でしかない。
――俺を恋敵とでも思っているのか。馬鹿馬鹿しい。
クロードは、リリアーヌへの罪滅ぼしとしてアンリを可愛がっているのであり、これは家族愛だと思っていた。そして恋愛対象にならない少年を挟んでいい大人が恥ずかしくないのかと、マクシムを睨み返す。相手のない喧嘩なのだと、言いたくてならない。
しかしそこにアンリが人差し指で窓を叩いた。
「皇帝陛下、村が見えてきました」
クロードとマクシムの無言のにらみ合いは、一時休戦となり、三人は窓の外を見た。中世からある古いイームスの街は四方を城壁に囲まれ、まるで島のように大地に浮かんでいる。
「絵で見たことがあります」
「絵で? 実物だって見たことあるだろう?」
「いいえ。これが初めてです」
アンリは両手を窓に貼り付けた。しかし、クロードは眉を寄せる。体の弱かったアンリは都ではなくずっと離宮で暮らしていた。ここから南下すれば保養地に着くのだから、アンリが中間点であるこのイームスを見たことがないのはおかしいと思ったのだ。あごの先に手をやって、しばらくするとマクシムの視線を感じた。
「なんだ」
「いいえ。なんでも」
馬車が静かに止まり、早く下りたいアンリが外していた上着のボタンをしめる。
「宿に到着しました。陛下」
ドアが開けられると、雨が降り出していた。肩を濡らした隊長が傘を皇帝に差し掛け、後から下りたアンリの傘はマクシムが受け取り、彼の腕がアンリの肩に回って二人で傘を共有する。
クロードは二人の仲のいい様子に不安になった。少なくとも二人の関係は隠すべきで、そういう配慮をすべきなのは臣下であり、大人のマクシムの方だった。
「わきまえよ」
すれ違いざまにマクシムを忠告した。しかし、相手は不敵に一瞥しただけだった。アンリが想いをよせる男ではければ、即座に殺すように命じていただろう。
「アンリ。来い」
だからだろう。喧嘩は売られたら必ず買う主義のクロードはか細い腕を掴むと、自分のために用意されいる部屋に引き入れて、ドアをパタンと閉めた。
「どうしたのですか」
アンリの髪から一粒の銀色の雨が滴り落ちた。
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