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7
アンリはクロードと二人きりになると、どうしていいか分からず、思わず彼がジャケットを脱ごうとするのを手伝ってしまった。
女でもないし、王らしくもない。
クロードは驚いたけれど、『弟としてこれぐらいさせてください』と言えば、柔らかに笑った。
昔もそうだ。
リリアーヌが婚約者らしい振る舞いをするのを好ましく思うのか、わざと上着を乱雑に脱いだり、ハンカチを忘れたりした。尽くすタイプのリリアーヌには尽くしがいのある人だと言えた。
「どうした?」
「茶でも入れましょうか」
「いや、俺はいい。アンリが飲みたいのなら入れろ」
別に喉がかわいていたわけではない。
気の置けない相手と思ってくれているのか、クロードがシャツのボタンを外してベッドに脱ぎ捨てた。たくましい腕、厚い胸板。指を這わしたくなるような腹の筋。アンリは胸がドキドキして心臓が飛び出てしまいそうだった。
「なんだ。まるで男の体を見たことのない乙女のようだな」
「僕は病弱だから、羨ましく思っただけです」
からかうように言ったクロードは悪いことを言ったと思ったのか、こちらに戻ってくるとアンリの銀髪をかき混ぜた。
「まだ若いんだ。そのうち健康になるさ。フォートには名医がたくさんいる」
男の匂いがした。
頭の中がふあふあしてクロードを直視できない。アンリはクロードが脱ごうとしたズボンを思わず掴んだ。
「うん?」
「あの、いえ。まだお礼を言っていなかったと思って」
「礼?」
「僕をあの宮殿から連れ出してくれたことです」
「何を言うんだ。無理やりさらったのは俺だろ?」
片目を瞑ってみせるクロードの男の色気に免疫のないアンリには強すぎる。首まで真っ赤になって「ありがとうございます」というと、また頭をかき混ぜられた。
「フォートに着いたら友達をたくさん作るといい。マクシム・バロー以外の友達も作ってみることだ」
「マクシムは友達ではありません」
「じゃ――。いや、聞かない。聞かないことにする」
アンリは、マクシムは忠実なる臣下で友達などという軽い関係ではないのだと言おうとしてクロードに拒否された。マクシムのためにも彼は男色などではなく、高潔な使命感にあふれた男なのだと言いたいのに、クロードは苦笑してシャツを着替えはじめてしまった。
「いいんだ。アンリはそのままのアンリで」
「いや、あの、陛下――」
「俺が味方だから」
やはり完全に誤解されている。最悪だ。
「あの、僕はまだ、そういうのではなくて――。なんというか、あの――まだ……」
「そういうことは早ければいいってものじゃない。体の関係から始まると、飽きればそれまでになってしまうこともある」
今度はもっと最悪にも童貞だと思われたらしかった。兄貴として親身になってくれるのはありがたいが、アンリは恥ずかしくてならない。ああ、なんでこんなことになるんだ!と頭を掻きむしりたい。
「ゆっくり考えればいい。マクシムは美男で優秀だ。爵位がないのが惜しいが、子爵ぐらいなら俺がなんとかしよう」
「そういう話ではないんです。しかも、マクシムって……」
「マクシムじゃないのか」
「……そういうのではないんです」
「なるほど」
クロードは腕を組んで考えて「ならいい人を紹介しよう。なかなかいい青年を知っている。きっと君のことも気に入るだろう」などという。
――ああ、だからそうではないのに!
否定したいが、否定すればフォートの王女と結婚させられて、初夜が出来ずに結果、女とバレてしまう。
「クロード。お願いです。女も男も紹介しないでください。僕は、僕は、この件に関してはもうちょと時間が必要なんです」
「ごめん。そうだったな」
クロードはアンリの肩を叩いて「すまない」といい「俺はいつだって味方だ」ともう一度念を押す。アンリとしては叫びたかった。
――あなたのことが好きなんです!
もしリリアーヌとして生きていたのなら、とっくにこの人の妻で子供もいたかもしれない。しかし現実は男と思われているだけでなく、マクシムと恋仲だ。
「これで失礼します」
「ああ。ゆっくり休め」
雨はひどくなっていた。今夜中はずっと降っていることだろう。
アンリは疲れと憂鬱から逃れようと立ち上がった。しかし、急に世界が暗転したかと思うと、勢い良く床に倒れて椅子を倒してしまった。よくある貧血で、体が思うように動かない。
「アンリ!」
アンリは病弱である。そう思い込んでいるクロードは大慌てでアンリの元に走り寄った。
「大丈夫か」
「大丈夫です。いつものことだから……」
テーブルの縁につかまって立ち上がろうとしたけれど、クロードに抱き起こされ、ベッドに運ばれる。気を失いそうになりながらも『軽い』と彼が言ったように聞こえたのは多分空耳ではないだろう。少女としてもそれほど大柄ではないアンリはきっと不自然に軽かったはずだ。
「ここに寝ろ」
クロードは自分のベッドにアンリを寝かせた。
「皇帝陛下……」
「言っただろ? クロードと呼べと」
「クロード。もう大丈夫だからマクシムを呼んでもらえますか」
「それでマクシムに看病してもらうのか」
「ボリスもいます」
「だめだ。君は王だ。あまり無防備になっていると君の秘密が公になってしまう。分かるだろう? ここにいろ」
優しくしないでとアンリは言いたかった。
「医者を呼ぼう」
「いいえ。寝ていれば良くなります」
「そうか」
クロードの右の頬の側にわずかに傷があった。戦争でできたものだろうかと思わずじっと見つめ手をのばす。
「どうした? おやすみのキスでもしてもらわないと眠れないのか」
「い、いえ、そんな――」
クロードは躊躇せずに額にキスをした。子供にするようなキスだ。なんの意味もない。それでもアンリはかぁっと顔を赤らめて顔を手で隠す
「おやすみ。アンリ」
「お、おやすみなさい」
彼の左手がアンリの頭を撫で、髪を一つにしているリボンへと流れた。するりと抜けてしまった黒いリボン。肩のあたりまである髪は枕に散らばった。
「リリアーヌ……」
驚いた男の瞳。あまりに似すぎていたからだろう、彼はぎゅっとアンリを抱きしめた。その腕はリリアーヌへの想いの丈だけ強かった。
それなのに、クロードはアンリがリリアーヌ本人だとは気付くことはなかった。同じ顔の弟とすっかり信じ込んでいて、わたしはここよ! とアンリの中に閉じ込められたリリアーヌが懸命に叫んでいるのに、その声はクロードには届かない。
「クロード……」
「すまない。忘れられないんだ。あの小さな子を」
「姉上は幸せな人です」
「そうだろうか。俺のせいであの子は――」
「幸せです。絶対」
男の苦悩のため息が耳元で聞こえた。体が奥からとろけてしまいそうな息の音で、アンリはもう一度『絶対です』と言ってクロードを抱きしめ返した。
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